(円光寺)原民喜のお墓

  中区東白島町の円光寺墓苑に建立されている「(原家の墓)原民喜の墓」です。
原民喜 (はらたみき:1905-1951)
詩人、小説家。広島市幟町生まれ。広島高等師範学校付属中学卒業、慶応義塾大学英文科卒業。
1936(昭和11)年頃より“三田文学”に散文詩風な短編を発表する。
1944(昭和19)年妻病死。「もし妻と死に別れたら一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために・・・」(「遙(はる)かな旅」)そんな思いを抱き、1945(昭和20)年春、広島市の兄のもとに疎開する。8月6日、原爆で被災。この新地獄のような体験は「夏の花」「鎮魂歌」などの作品になる。1946(昭和21)年上京、“三田文学”の編集。1951(昭和26)年3月13日西荻窪で鉄道自殺。
墓石に刻まれた人たち続柄;父信吉、母ムメの間に五女七男(長男・次男は早世)長兄・信嗣、次兄・守夫
民喜・妻 貞惠 昭和19(1944)年9月28日  34才 (享年:はかぞえ)
次兄守夫・四男 文彦 昭和20(1945)年8月6日    7才 斉美国民学校1年の時
(本人) 民喜 昭和26(1951)年3月13日    46才  
次兄守夫・長男 邦彦 昭和50(1975)年10月25日   43才
(次兄) 守夫 昭和53(1978)年6月3日     75才  
次兄守夫の妻? 良子 平成10(1998)年6月17日    88才
2006年交流ウォークのときに原民喜のお墓があることを教えていただきました、
墓所ですので檀家の方々のお参りもありご迷惑をかけないようにと、小数人に分かれて原家のお墓をお参りさせていただきました。
2006年は、墓石に刻まれた民喜以外の人たちに注目していなかったので、他の人はみていなかったのです。
2015年被爆70年に訪ねた時、米軍によって原爆を投下されたその日に亡くなった“文彦 昭和二十年八月六日没七才”と刻まれていた処に目が留まったのです。
民喜に子はいない、お父さんは民喜が若いときに亡くなっているから昭和20年に7歳になる弟はいないな、誰だろう?と「夏の花」に出てきた名前だったかなと帰宅後読んでみました。「夏の花」に文彦が出てき次兄・守夫の子であることがわかりました。
2018年のいまになりましたが、この頁を更新しました。
18.05.24.更新   06.02.05裕・記編集

06.07.21撮影
広島市中区東白島町16-20 (円光寺墓苑)

06.01.21.撮影
原家のお墓 民喜  昭和26(1951)年3月13日没

15.04.09.撮影
(原家のお墓の周りが変わっていました)

15.04.09.撮影
敬称は略しました



「広島ゆかりの人たちのお墓」編



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