(平山神社)奉納絵馬

  安芸区上瀬野町の平山神社拝殿に奉納されている絵馬を取り上げました。
*江戸時代の絵馬を中心に取り上げました。
大正時代の縮景園が描かれた絵馬以外の3枚の絵馬、わたしには何を題材にして描かれている絵馬なのかは正確にはわかりませんでしたが、推測してみました。
2006年以来久しぶりに参拝した平山神社でした。その時はここで取り上げた奉納絵馬をみることもなかったのです。今(2017年)回は帰宅後何の絵馬か推測してみようと思い撮影したのです。
 17.02.07.裕・記編集
-武者絵馬-
  (八幡神社である平山神社ですので武勇を表す絵馬が奉納されたのでしょうね)
宇治川の先陣(うじがわのせんじん)
1184(寿永3)年の宇治川の戦いで、源義経側の佐々木高綱(?-1214)と梶原景季が源頼朝(1162-1200)から与えられた名馬生唼(いけずき)・磨墨(するすみ)に乗って、宇治川を渡る先陣争いをしたこと。「平家物語」(の中での有名な話のひとつ)や「源平盛衰記」にみえる。
何処かの神社でみたことがある構図の絵馬だなと思ったのです。
2009年に安佐南区中筋の才ノ木神社でみていたのですが、その時もわからなかったのです。
今回、みてNET検索でいろいろと見てみましたが、武者の姿などに違いがありますが、「宇治川の先陣争い」を描いた絵馬ではないかと思ったのです。
   関連頁:(才ノ木神社)奉納絵馬

17.01.13..撮影
天保八年丁酉九月吉辰  (天保8年=1837年)
 
-乳飲み子絵馬-
  (乳神様を祀る神社は全国にあり、乳が出ない母親の願いが込められている?)
母乳が出ないお母さんが赤ん坊を育てることが困難な時代(日本では1918年に森永ドライミルクが売り出される前)には、神にもすがる気持ちから奉納絵馬の題材になったのだろう思いましたが。
ここ平山神社の祭神が八幡神であることを考えた時、妊娠したまま神功皇后が三韓征伐(出兵)後、帰国して応神天皇を産んだという神話にたどりつくこともできるのではないのかと思いました。
神功皇后(じんぐうこうごう)
「記紀」によると仲哀天皇が熊襲を討つため九州におもむき筑紫の橿日 (香椎) 宮で急死すると、同行の神功皇后は妊娠中にもかかわらず、武内宿禰とはかり新羅に遠征、新羅降伏後筑紫に帰って品陀和気命(応神天皇) を産んだという。

17.01.13..撮影
天保 十歳九月吉日  (天保10年=1839年)
-武者絵馬or神話絵馬-
弓を射る武者と云えば那須与一が一番考える単純なわたしですが、これは違っていますので、さてさてと考えたのです。
神武天皇東征伝説
「記紀」によれば、神武天皇は、天下ったニニギノミコトの子孫で、第1代の伝説上の天皇。
“日本書紀”によると、日向にいたとき、東の方に都をつくるのによい土地があると聞いて「東征」の旅に出る。海路や陸路で近畿へ進み、地元勢力と戦いを交えながら、大和の橿原宮で即位したと伝えられる。
その中にナガスネヒコとの戦いがあり、
『戦いの最中、金色の鵄(とび)がカムヤマトイワレビコの弓の先にとまった。金鵄(きんし)は光り輝き、ナガスネヒコの軍は眩惑されて戦闘不能になった。』という話があります。
絵馬には金鵄が描かれていませんので、(わたしの)推測は大いに不安がありますが、広島にも神武天皇につながる神話地がありますので神武天皇を考えたのです。
   関連頁:「神武天皇伝承関連碑など」編

17.01.13..撮影
  弘化貮年乙巳九月   弘化2年=1845年
-縮景園絵馬-
縮景園は、1945(昭和20)年8月6日米軍投下の原爆で壊滅したのです。
この奉納絵馬は、1922(大正11)年ころに描かれていますので、復興された現在の縮景園でないころに描かれたということで取り上げました。
1913(大正2)年10月園内に観古館が設けられ観覧が許されるようになったことから一般の人も見ることができるようになった縮景園(当時は泉邸と呼ばれていました)ということで絵馬に描かれ奉納さてたのでしょう。
   関連頁:「縮景園」編

17.01.13..撮影
 大正十一年四月吉日 (大正11年=1922年)



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