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安芸郡府中町宮の町に鎮座している「多家神社(埃宮)」です。
※1873(明治6)年松崎八幡宮と総社を合わせ多家神社として復興しました。
※惣社は、厳島神社兼帯七社の一社でした。 |
多家神社略誌 |
当・多家神社は、神武天皇御留蹕霊地です。
神武天皇は紀元前7(西暦653)年の12月27日に安芸の埃宮即ち当神社の下に御着船になり神社境内地の誰曽廼森に御上陸されました。昔、府中町は全部海であって此の辺一帯を江の湊と呼んでいました。
古事記には「神武天皇阿岐国多祁理の宮に七年坐(ま)しき」とあり、日本書記には「神武天皇安芸国に至り坐して埃宮に坐します」とあり故に当・多家神社は、別名:埃宮とも多祁理の宮とも云われます。
当社は1873(明治6)年創建されましたが、1915(大正4)年夏の火災で校倉を残し社殿を全焼しました。1922(大正11)年現在の社殿が再建されました。
当社にある校倉の校子は四角の木で造ったもので日本中にある他の三十棟の校倉は三角形の木で造った校子である故に当社の校倉は日本で只一棟あるのみです。 |
昭和47(1972)年府中町、府中町観光協会 |
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安芸国開祖
主祭神 |
神武天皇 |
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安芸津彦命 |
相殿神 |
神功皇后 |
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応神天皇 |
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大己貴命 |
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平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(927年完成)に安芸国の名神(みょうじん)大社の一つとして多家神社の名が記され伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社として崇められました。
当時、主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々でした。
中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ互いに多家神社ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかったのです。
そこで1873(明治6)年松崎八幡宮と総社を合わせ「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在地)に、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興し、1874(明治7)年県社となり村内小社を廃し多家神社に合祀しました。 |
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広島県文化百選(建物編)に選ばれているという多家神社宝蔵を訪ねてみようと思ったがはじまりでしたが、お参りした後、境内を回っているときに神武天皇の碑、幼年学校の碑などをみて撮影しました。
何度か訪ねていて境内で最初は気付かなかった碑などをみましたので別頁で編集しています。 |
06.06.28裕・編集 |