(多家神社玉垣寄進者)横山金太郎、保田八十吉など

  安芸郡府中町宮の町の多家神社の玉垣寄進者の「横山金太郎、保田八十吉など」を取り上げました。
神社の御影石製の玉垣は、寄進者を募りその費用で整備されるのでしょう、その寄進した人たちの名前が刻まれているのをそここのの神社でみてきました。
ここ多家神社は、初詣で一家そろって参拝したこともあり、一人ぶらり散歩したこともありましたが、玉垣に刻まれた人たちの名前を気にしてみることもありませんでした。
みると、横山金太郎、保田八十吉の名が刻まれた玉垣があり足をとめたのです。
横山金太郎よこやま・きんたろう (1868-1945)
広島県(現・庄原市)東城町出身。十六代広島市長。東京法学院(現・中央大学)卒。
1891(明治24)年代言人試験合格。1895(明治28年)西条区裁判所判事。1897(明治30)年台湾台北地方法院判官。1899(明治32)年広島市で弁護士開業。1903(明治36)年県会議員、1907(明治40)年広島市会議員(明治45年1月第13代議長)。1908(明治41)年5月広島県第三区選出立憲民政党衆議院議員(当選9回)。1909(明治42)年広島弁護士会長。1931(昭和6)年(浜口内閣)文部政務次官。
広島市長1935(昭和10)年2月-1939(昭和14)年2月
保田八十吉やすだ・やそきち (1843-1919)
諱は茂生、号は二橋。通称は八十吉。1863(文久3)年稲荷町西組年寄。先代以来度々御国恩寸志銀献上により四十二人扶持、苗字帯刀御免。1866(慶応2)年十二人扶持。生涯町大年寄次。1886(明治19)年第百四十六国立銀行、同行が1897(明治30)年に(普通銀行の)廣島銀行に転換した後頭取、亡くなるまで取締役の地位にあった。農工銀行取締役、米綿取引所理事長帝国実業協会幹事などを務めた。宇品築港では県令千田を支援してこれを完成された。1888(明治21)年に黄綬褒章を受ける。1900(明治33)年正七位、没後1919(大正)8年従六位に叙位。
多家神社は1915(大正4)年9月社殿を焼失しています。社殿再建工事は1918(大正7)年2月起工式を行った歴史があります。
この玉垣を考える時、保田八十吉が亡くなった年、横山金太郎が代議士で、広島市長になる前と考えれば、この玉垣が造られた年代も同じころだろうと(わたしは)推測しました。間もなく100周年をむかえる玉垣なのかと思いながらみると感慨も深いものになるのではないのでしょうか。
2012年交流ウォーク下見の時、古い玉垣だなと思いながらみていると「横山金太郎」の名をみたので、足をとめたのです。
代議士と刻んでありましたので16代広島市長だった横山金太郎と確認できました。代議士の隣の字は薄くなってその時はよくわかりませんでしたが、撮影した画像を拡大してみると弁の旧字:辨護士と読めるようでした。
玉垣の並びをみていたMさんが保田八十吉もありますよと云われましたので、二葉の里の鶴羽根神社で「(保田八十吉)勒功彰徳碑」をみていましたので、撮影しました。
わたしが知らないだけで、他の人たちもそれなりに名を残した人物ではないのかと思いました。
玉垣の全体を同じ2012年撮影していた画像を、いまになり画像を整理していて見つけましたので、この頁を更新しました。
15.02.21更新    12.04.15裕・記編集

12.06.02.撮影
安芸郡府中町宮の町3-1-13 多家神社

12.03.03撮影

12.03.03撮影
代議士 辨護士 横山金太郎

12.03.03撮影
廣島市  保田八十吉

12.06.02.撮影
(道路正面に)埃宮橋、 多家神社玉垣



「その他」編
(書家など揮毫関連)



広島ぶらり散歩
多家神社
多家神社・宝蔵
神武天皇東征御留蹕霊地・碑
(多家神社復興工事)竣功・碑
(多家神社)中門並春日燈籠寄附者・碑
廣島陸軍幼年學校・紀元2600年記念碑
御大典紀念樹・碑
(多家神社鳥居額)有栖川宮親王書
横山金太郎、保田八十吉他寄進の玉垣
(多家神社境内社)貴船神社


「(安芸郡)府中町」編


inserted by FC2 system