善法寺
  西区己斐本町に創建されている「瑞雲山・善法寺」です。
瑞雲山善法寺は、浄土真宗本願寺派のお寺です。
1556(弘治2)年第一世・恵善和尚が沼田郡阿戸村において臨済宗仏通寺派蓮光庵を開山。
1628(寛永5)年寺号を善法寺と改称し、阿戸村から現在の寺町に移転。
元禄年間(1688〜1703)「境内非境内」論争が起こり、寺町より、沼田郡楠木村に移転、論争の終結に伴い、寺町に戻りました。第四世・法院釈念誓、浄土真宗に改宗。
1815(文化12)年第十一代至暁は、本願寺十九世本如上人より寺号「善法寺」を免許されました。来眼は藪内流の大茶人であったため、薮内紹智の愛用品茶灯篭及びつくばいを受領し、現在も保全しているそうです。 
善法寺法宝物・阿弥陀如来木像(飛鳥康雲作)・聖徳太子木像(年代不明 室町時代)。 1879(明治12)年第十三世・至道住職が本願寺より重ねて公称として善法寺を許可されました。
第十四世至道が、1,929(昭和4)年己斐町に布教所「善法寺樹心教会」を設置、1936(昭和11)年善法寺の本堂、書院、庫裏が完成し、ここ己斐町で被爆し、被爆建物として現存しています。
ただ、寺町の善法寺は、1945(昭和20)年8月6日原爆により焼失したそうです。
縁起の資料は西区の資料(広島史話伝説第二集)などを参考にしましたが、お寺の資料と多少違っていましたので訂正しました。
善法寺本堂保存工事        施工:2009(平成21)年3月   
  1945(昭和20)年8月6日午前8時15分原子爆弾が広島中心部上空≒600mで炸裂し街は一瞬のうちに焦土と化しました。
1936(昭和11)年に建立された善法寺本堂は、原爆による焼失はまぬがれましたが、その強烈な爆風によって大きな被害を受けました。
戦後、本堂は何度も修復を繰返してきましたが、痛みが激しくなり、原爆の悲惨さを後世に伝えるため、2009(平成21)年門信徒並びに地域の方々のご懇志と広島市被爆建物等保存継承事業の助成によって、保存工事が行われました。
本堂は、1927(昭和2)年*木造として竣工しました。
爆心地から≒2740m  被爆当時町名は己斐町でした
戦争末期善法寺は、三菱重工広島機械製作所の人事部が疎開し本堂を事務所としていました。
1945(昭和20)年8月6日原爆によって本堂と庫裏は屋根や天井の大部分が落下するなど大破し、多くの負傷者をだしました。被爆後、お寺は救護所兼遺体収容所となり、死者は旭橋西詰の土手で荼毘にふされたそうで、終戦直後、臨時に軍人遺骨の奉安・伝達所及び被爆死没者の遺骨奉安所となり、のち遺骨は広島市の原爆供養塔に合祀されました。1945(昭和20)年12月〜1946(昭和21)年5月まで本願寺広島別院の教務所としても利用されました。
資料をみて被爆建物であることを知りましたので、2006年訪ね撮影し頁を編集しました。
2010年訪ねた時に、保存工事が成されたという説明板が設置されていましたので、読むと、本堂の竣工時期が資料とお寺の説明文(1936年=昭和11年)と、異なっていましたので、説明板を追加しました。
2017年久しぶりに近くに行きましたので、前回工事中の所もありましたので立ち寄り撮影しました。
18.02.20.更新   06.11.29裕・記編集

06.10.04撮影
広島市西区己斐本町3-10-8 

06.10.04撮影

06.10.04撮影
瑞雲山  善法寺 本堂

06.10.04撮影

06.10.04撮影
昭和16(1941)年撮影、説明板の(被爆前の本堂の)写真を使用しています

10.05.08撮影
説明板の撮影附近からは仮囲いが邪魔でしたので多少違いますが保存工事完了後の本堂です

17.02.16.撮影
善法寺本堂保存工事設置の塀

17.02.16.撮影
出入り口付近から本堂をみました

17.02.16.撮影

17.02.16.撮影

17.02.16.撮影
本堂

17.02.16.撮影
(前回撮影時工事中でした)



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