餓鬼がきの首地蔵
  西区井口に祀られている「餓鬼の首地蔵尊」です。
昔この辺りは一面の海でした。ある時舟が暴風雨に遭い船頭がなくなり、その家族が供養のため洞穴を掘りお地蔵様を祀りました。その場所が「がきの首」と云われていましたので、餓鬼の首地蔵と呼ばれ海の安全を願うお地蔵様でした。当時船頭たちの目印になっていました。
寛政9(1797)年広島藩の絵師・岡岷山(みんざん)による(現・北広島町)都志見への「駒ヶ瀧」の写生旅行での『都志見往来日記』には、保井田村(現・五日市町)の庄屋で『「さきに過ぎし汗馬(あせば)の脇にがきが首と云所あり、がきとハ、いかにもいやしき名なるが、外に唱へハなきやと尋けれハ」庄屋は「此辺ニて小山の嶮なるものをがきと申ならハし候」と答えた』と記しているます。「同諸勝図」の汗馬にも描かれ注目されるようになりました。
その後現在の井口と五日市の境に移され、境地蔵とも呼ばれていました。
なお、尾張の承認・菱屋平七が享和2(1802)年の九州への旅を記した『筑紫紀行』には、この近所にあった「いと華好(きれい)なる茶屋」で休息した際の様子を可笑しく書いています。
平成21(2009)年11月井口・鈴が峰魅力さがし委員会
昔この辺りで仕事をしたことがあったのに目と鼻の先だったこの地蔵尊はもちろん、西国街道が通り、この辺りまで海であったことなどを知らなかったのです。五日市公民館発行の「西国街道ぶらり散策まっぷ」をみてこの地蔵尊を知り五日市側から訪ねました。ということで2007年五日市町辺りをぶらり散歩した時訪ねて頁を編集し、この「がきの首地蔵」説明を『シケで死亡した船頭さんの霊を供養するために、井口と皆賀との村境に建立されたそうです。この辺りの岩礁「がきの首」にちなんで名付けられ、後になって境地蔵とも呼ばれたと聞きます。』と資料をみて記述していました。
2010年交流ウォーク下見で訪ねた時に、説明板が設置されていました(説明板には餓鬼の首と漢字を使用していましたので併用しました)ので、HPを引越している今(2011年)になりましたが追記しました。
11.10.16更新   07.06.07裕・記編集

07.03.07撮影
広島市西区井口4-4

07.03.07撮影

07.03.07撮影

10.06.05撮影

10.06.05撮影
2007年は無かった説明板が設置されていました
説明板の画像を使用しました
説明板の画像を使用しました



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