五日市で殉職したキリシタンを偲ぶいしぶみ

  佐伯区五日市の五日市キリスト教会前に建立されている
                               「五日市で殉職したキリシタンを偲ぶいしぶみ」石碑です。
明治初期のキリシタン禁教により迫害された信徒のこと※は、長崎、津和野においてよく知られています。長崎から広島に流された者の一部は1870(明治3)年7月11日五日市に着き改宗を迫られました、うち三名は激しい拷問にたえ信仰を守り五日市の地で殉教されました。
家頭 文次郎 せがれ 喜蔵 40歳 1870(明治3)年10月20日召天
    喜蔵 妻 みつ 39歳 1870(明治3)年7月13日召天
家頭 惣四郎 娘 くら 12歳 1870(明治3)年8月8日召天
1987(昭和62)年10月 建立
2007年交流ウォーク探検隊ということで五日市をウォーキングしていたのです。
五日市キリスト教会の前に『五日市で殉職したキリシタンを偲ぶいしぶみ』が建立されていました。
明治期のキリシタン迫害で亡くなった方が広島の地にもおられたことを知りました。
以前、津和野に行った時にマリア聖堂に立寄り、2005年長崎浦上天主堂を訪ね、今回のこの殉教の碑を観て繋がりが少しばかりわかってきました。
 07.06.24裕・記編集
   関連頁:(日本アライアンス教団)五日市キリスト教会

07.03.07撮影
広島市佐伯区五日市4-10 (五日市キリスト教会前の道路を挟んで建立されています)

07.03.07撮影

07.03.07撮影
五日市で殉職したキリシタンを偲ぶいしぶみ 1987(昭和62)年10月 建立
※浦上四番崩れ
長崎県で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模なキリスト教信徒への弾圧事件のことです。
1867(慶応3)年隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けたました。江戸幕府のキリスト教禁止政策を引継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされました。
このことは諸外国の激しい非難を受けたことで、1873(明治6)年にキリシタン禁制は廃止されました。
1614(慶長19)年以来259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになりました。
関連頁:浦上三番崩れ 資料はウィキペディア他を参考にしました



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