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中区江波南の衣羽神社に建立されている「柳屋又七功徳碑」です。 |
功徳碑
柳屋又七
功徳を顕著す |
(こうとく・ひ)
(けんちょ) |
明治二十八年十一月■■建之 |
明治28年=1895年 |
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江波の海苔(のり)養殖
江波山周辺の岸辺には、天然海苔が着生し摘み取って食用にしていました。
江戸時代中期の宝暦2(1752)年〜明和4(1767)年に柳屋又七がのり養殖製法を開発し生産が増大しました。
その後、生産は順調に推移しましたが、昭和15(1940)年からの江波・吉島地先等の埋立てで干潟が少なくなり、戦後は昭和40(1965)年の大芝水門完成や水質汚染で生産量が落ちてきました。平成年代に入ってからのりの生産が終わりました。 |
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初代・柳屋又七(やなぎやまたしち:?-1801) |
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安芸国の人。
1767(明和4)年(1767)太田川河口の江波島で小笹をつかった竹ひびによる海苔養殖に成功。島全体にひろめ、広島海苔の名をたかめた。1801(享和元)年7月15日死去。 |
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2代目(えびらのりの製法を改良)、3代目(江戸にのぼり浅草のり製法を学ぶ)、養殖技術の改良,販路の開拓につくしたそうです。 |
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2007年衣羽神社を訪ね参拝した時に「皇太子殿下縣下行啓記念・碑」の根際に建立されている石碑にも目が行き撮影していました。碑面をみて“柿屋又七”とはどういう人物だろうと思っていましたがわからなかったのです。
2011年“ほお〜江波!散策会実行委員会”設置の「江波のり養殖」という説明板で、この石碑の人物が「柳屋又七」で柿屋と思っていたのが間違いだった事を知り、海苔養殖を開発した人物とわかりましたので、この頁をいまになりましたが編集しました。 |
14.09.22.裕・記編集 |