神社仏閣関連人物編豆知識詳細

  神社仏閣に関係する天皇、人物を辞書を引いて調べたものをまとめたのがこの頁です。その人物から関連する神社仏閣をぶらり散歩されてはという発想からの頁です・・・
 05.08.11更新   04.08.18裕・再編集
あんとくてんのう
安徳天皇
(1178-1185)
平安時代後期、第81代天皇(在位 1180-1185)。高倉天皇の第1皇子。名は言仁(ときひと)。
母は平清盛の娘建礼門院徳子。二歳で即位。平宗盛に擁せられて、西国に落ち、壇ノ浦で平氏一門とともに入水した。
関連頁 赤間神宮
おうじんてんのう
応神天皇
記紀の所伝の第15代天皇誉田別命(ほんだわけのみこと)の漢風諡号(しごう)。仲哀天皇の皇子。母は神功皇后。日本書紀によれば、母の摂政下で皇太子にとなり、母の死後即位。
この時期、朝鮮・中国から渡来して技術を移入する者が多く、大和朝廷の勢力が大いに発展した。
墓所は大阪府羽曳野市にある恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)巨大前方後円墳。
「宋書」の倭王讃をこの天皇にあてる説がある。

関連頁 鶴羽根神社    鶴岡八幡宮絵馬、大崎八幡神社絵馬
くさかべのおうじ
草壁皇子
(662-689)
天武天皇の皇子。母はのちの持統天皇。
文武天皇・元正天皇の父。壬申の乱で父に従い、皇太子となったが早世。

関連頁 岡寺(龍蓋寺)絵馬
こうみょうこうごう
光明皇后
(701-760)
聖武天皇の皇后。孝謙天皇の母。藤原不比等の娘。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子とも。悲田院・施薬院を設けるなど社会事業を行い、また天皇の東大寺建立を助け仏教興隆に尽くした。王羲之の書「楽毅論」を臨書した巻物は名筆として著名。
関連頁 新薬師寺絵馬
ごしらかわてんのう
後白河天皇
(1127-1192)
第77代天皇(在位 1155-1158)。名は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。
1169(嘉応元)年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。また、今様(いまよう)を好み「梁塵秘抄(りようじんひしよう)」を撰した。

関連頁 三十三間堂絵馬
ごだいごてんのう
後醍醐天皇
(1288-1339)
第96代天皇(在位 1318-1339)。名は尊治。後宇多天皇の皇子。
親政を企てて正中の変・元弘の変に敗れ、隠岐に流された。1333年脱出し、新田義貞・足利尊氏らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立。のち公武の不和から親政は失敗し、尊氏らも離反、36年吉野に移り南朝を立てた。

関連頁 野宮神社絵馬
ごならてんのう
後奈良天皇
(1496-1557)
第105代天皇(在位 1526-1557)。名は知仁(ともひと)。後柏原天皇の第二皇子。
在位中は皇室が最も衰微した時期で、践祚(せんそ)の10年後に後北条・今川・朝倉・大内氏らの献金でようやく即位式を行なった。日記「天聴集」がある。名筆として著名。

関連頁 野宮神社絵馬
さいめいてんのう
斉明天皇
(594-661)
日本書紀で第37代天皇(在位 655-661)の漢風諡号(しごう)。第三五代皇極天皇の重祚(ちようそ)。皇居は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)、のち飛鳥岡本宮。百済(くだら)救援軍を率いて九州に下り、筑紫朝倉宮で病死。
関連頁 八坂神社絵馬
じゅんとくてんのう
順徳天皇
じゅんとくじょうこう

順徳上皇

(1197-1242)
鎌倉時代、第84代天皇(在位1210−1221)。後鳥羽上皇の息子。兄・土御門天皇の譲位をうけ14歳で即位。父の院政下にあって、皇子・仲恭天皇に位をゆずり、父とともに鎌倉幕府の転覆をはかった1221(承久3)年承久の変に失敗、北条義時によって佐渡に流された、46歳で亡くなるまでの22年間を佐渡で過ごされた。墓所は京都左京区、大原陵(みささぎ)。著作に「禁秘抄」「八雲御抄」
☆ももしきや古き軒端の忍ぶにもなほ余りある昔なりけり
 (小倉百人一首)
関連頁 真野宮絵馬
しょうとくたいし
聖徳太子
(574-622)
用明天皇の皇子。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。上宮太子(うえのみやのみこ)・法大王(のりのおおきみ)・上宮聖王などとも呼ばれた。聖徳太子は諡号(しごう)。
推古天皇の摂政として冠位十二階・十七条憲法を制定。小野妹子(いもこ)を隋に派遣して国交を開いた。また、広く学問に通じ、深く仏教に帰依(きえ)して、法隆寺・四天王寺ほか多くの寺院を建立するなど仏教振興に尽くした。著「三経義疏」
関連頁 新薬師寺絵馬
しょうむてんのう
聖武天皇
(701-756)
第45代天皇(在位 724-749)。名は首(おびと)。文武天皇の第一皇子。
光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き、東大寺を建立して大仏を造立した。その書「雑集」は、繊細な筆致の名筆。

関連頁 新薬師寺絵馬
じんぐうこうごう
神功皇后
記紀所伝の仲哀天皇の皇后。父は気長宿禰王、気長足姫(息長帯比売)(おきながたらしひめ)の漢風諡号。
「日本書紀」によれば、天皇の熊襲征討にしたがい筑紫におもむいたが、天皇の急死。翌年みずから兵を引き、新羅に出陣百済、高句麗を帰服させた。、凱旋ののち筑紫の地で応神天皇を出産、69年間摂政をつとめたという。「播磨風土記」などでは大帯姫(おおたらしひめ)とも。

関連頁 鶴羽根神社    鶴岡八幡宮絵馬大崎八幡神社絵馬
じんむてんのう
神武天皇
記紀に第1代と伝える天皇。
神武という名は8世紀後半に贈られた中国風の諡号
(しごう)である。
『日本書紀』によれば、国風諡号は神日本磐余彦尊
(かんやまといわれひこのみこと)
高天原から南九州の日向に降った瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)の曽孫で、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第4子、母は海神の女(むすめ)玉依姫(たまよりひめ)
45歳のとき、船軍を率いて日向を出発し、難波に上陸して大和に向かおうとしたが、土地の豪族軍に妨げられ(東征)、紀伊半島を迂回して熊野から大和に入り、日向出発以来、6年目(『古事記』では16年以上かかる)で大和平定に成功し、辛酉
(かのととり)の年元旦、畝火(うねび)(橿原市の地)の橿原宮で初代の天皇の位につき、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃えられた(大和平定)。
関連頁 廣瀬神社
すとくてんのう
崇徳天皇
(1119-1164)
第75代天皇(在位 1123-1141)。名は顕仁(あきひと)。
鳥羽天皇第一皇子。鳥羽上皇の圧力で異腹の近衛天皇に譲位、新院と称した。のち保元の乱を起こし、讃岐(さぬき)に配流され、同地で没した。墓を白峰(しらみね)陵という。讃岐院。

関連頁
ちゅうあいてんのう
仲哀天皇
記紀の所伝で、第14代天皇。足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)の漢風諡号。日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二王子。皇后は気長足姫(おきながたらしひめ)(神功皇后)。熊襲(くまそ)征討におもむき筑前橿日宮(かしひのみや)で没したという。
関連頁 鶴羽根神社      大崎八幡神社絵馬
てんむてんのう
天武天皇
(?-686)
日本書紀で第40 代天皇の漢風諡号(しごう)(673-686)。名は大海人(おおあまの)皇子。和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)。舒明天皇第三皇子。兄、天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し、吉野に退去。672年挙兵して、大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。
在位中、国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し、律令体制を推進した。

関連頁 室生寺絵馬
なかみかどてんのう
中御門天皇
(1701-1737)
第114代天皇(在位 1709-1735)江戸中期(幕府は6代家宣・7代家継・8代吉宗)。名は慶仁(やすひと)。幼名は長宮(ますのみや)。東山天皇第五皇子。
父の譲位を受けて即位するが、父の時代に復活した大嘗祭はまた中止となる。墓所は京都東区、月輪陵。著作に「公事部類」などがある。
関連頁 野宮神社絵馬
めいじてんのう
明治天皇
(1852-1912)
第122代天皇(在位 1867-1912)。名は睦仁(むつひと)。幼名、祐宮(さちのみや)。孝明天皇第二皇子。母は中山慶子(1836★-1907)。
父の死により1867(慶応3)年践祚し、その10ヶ月後幕府は大政を奉還。五箇条の誓文を公布し、新政府の基本方針をしめす。明治と改元して一世一元とさだめ、京都から東京へ遷都。欧米の制度や文化をみならい、政治・経済・社会・教育・軍事を改革し、大日本帝国憲法や教育勅語などを発布して、立憲国家・近代国家確立に献身した。在任中、日清戦争日露両戦争大逆事件がおこり、韓国併合がおこなわれた。和歌をこのみ約10万首の詠歌をのこした。墓所は伏見桃山陵。
関連頁 明治神宮絵馬  (宇品)明治天皇御駐驛趾碑  (草津町)置鳳輦止處・碑
やまとたけるのみこと
日本武尊
倭建命
景行天皇の皇子。
古事記の構想では、神武の大和平定後、孝霊・崇神と引き継がれる国内における王化の拡大の歴史の完成者として位置づけられる。西の熊襲(くまそ)討伐・東征などは、その具体的活動。
なお、日本書紀では、景行自身の九州・東国巡行とともに日本武尊の西征・東征が語られ、景行による国内平定という色彩が強い。小碓命(おうすのみこと)。倭男具那命(やまとおぐなのみこと)。

関連頁
あんこくじえけい
安国寺恵瓊
 ?-1600
安土桃山時代の臨済宗の僧。安芸(沼田郡)の人。字(あざな)は瑶甫(ようほ)。
安芸国の竺雲等連(じくうんとうれん=禅僧)に見出され東福寺塔頭(たっちゅう)退耕庵の主となり安国寺を兼帯。1582(天正10)年豊臣秀吉の高松城攻めの和議使をつとめてから、秀吉と毛利輝元の信任をを得て寺領を与えられ、安国寺・東福寺を再興。1592(文禄元)年文禄の役には従軍僧として朝鮮に渡った。1598(慶長3)年東福寺224世の席を継ぎ、翌年退耕庵を造営し、さらに南禅寺の公帖(=禅宗五山の住持の辞令)を受ける。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いが起こると、毛利氏とともに石田三成に応じて徳川家康と戦ったが敗れて京都・建仁寺に潜んでいるところを捕らえられ同(1600)年10月1日京都六条河原で斬首され、三条河原に梟首(きょうしゅ)された。
関連頁 新日山安国密寺不動院
ぎょうき
行基
(668-749)
奈良時代の僧。和泉の人。俗姓、高志氏。
道昭・義淵らに法相
(ほつそう)教学を学ぶ。のち諸国をめぐり、架橋・築堤など社会事業を行い、民衆を教化し行基菩薩と敬われた。その活動が僧尼令に反するとして弾圧されたが、やがて聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺の造営に尽力し、大僧正に任ぜられ、また大菩薩の号を賜った。
関連頁 杉本寺の絵馬を見る
くうかい
空海
(774-835)
日本の真言宗の開祖。諡号(しごう)、弘法大師。讃岐の人。
804年最澄(さいちよう)らとともに入唐し、長安の青竜寺恵果(けいか)に学ぶ。806年帰朝して高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)を開く。嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を賜り、その翌年には大僧都に任ぜられた。
日本最初の庶民学校である綜芸種智院(しゆげいしゆちいん)を設立。書にすぐれ三筆の一人にあげられ、「風信帖」などの名品がある。また、詩文にも秀でた。後世、広く庶民信仰の対象として尊ばれた。著「三教指帰(さんごうしいき)」「十住心論」「弁顕密二教論」「性霊(しようりよう)集」「文鏡秘府論」「篆隷(てんれい)万象名義」ほか。
関連頁 室生寺の絵馬を見る
しゃか
釈迦
紀元前463〜前383
紀元前560〜前480
諸説あり
仏教の開祖。世界四聖の一人。姓はゴータマ、名はシッタルタ。中部ネパールの釈迦族の中心地迦毘羅(かびら)城に浄飯王(じようぼんのう)の子として生まれる。母は摩耶夫人(まやぶにん)。29歳で出家、35歳で悟りを得た。のち鹿野園(ろくやおん)で五人の修行者を教化し(仏教教団の成立)、以後80歳で入滅(にゆうめつ)するまで教化の旅を続けた。教説は四諦(したい)・八正道(はつしようどう)・十二縁起などでまとめられる。釈迦牟尼(しやかむに)。釈尊。釈迦如来。
※紀元前七〜六世紀頃、ヒマラヤ山麓ネパールに居住していた部族。釈迦も釈迦族の出身。
関連頁
ぶっしゃり
仏舎利
釈迦の遺骨。仏の骨。
関連頁 二葉山平和塔(仏舎利塔)
しんらん
親鸞
(1173-1262)
承安3-弘長2
鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。別称、範宴・綽空(しやくくう)・善信。諡号(しごう)、見真大師。日野有範の子と伝える。初め比叡山で天台宗を学び、のち法然(1133-1212)の専修念仏の門に入る。
承元元(1207)年専修念仏停止の法難に遭い、越後国府に流罪。赦免ののち長く関東に住み布教と著述を行う。法然の思想をさらに徹底させ、絶対他力による極楽往生を説き、悪人正機を唱えた。
主著「教行信証」は、他力の立場から浄土教の教理を純化・体系化したもの。ほかに「唯信鈔文意」などがある。唯円編の法語集「歎異抄」は有名。妻は恵信尼。

関連頁 本願寺・広島別院を見る
てんかい
天海
(1536-1643)
江戸初期の天台宗の僧。号は南光坊。諡号(しごう)は慈眼大師。会津の人。
比叡山・興福寺などで諸宗について学び、川越の喜多院などに住した。徳川家康の帰依をうけて政治にも参与し、日光山を授けられた。家康死後、家康を久能山から日光山に東照大権現として改葬。また、江戸上野に寛永寺を創建。天海版と呼ばれる「大蔵経」の版行を発願、その死後に完成。

関連頁
とくどう
徳道
(656-?)
飛鳥〜奈良時代の僧。播磨(兵庫県)の人。俗姓は辛矢田部(からやたべ)。
大和・弘福ぐふく寺の道明に師事。養老4〜神亀4(720−727)のころ、道明のもとで長谷寺を創建。また仏師稽(けい)主勲、稽文会(もんえ)に本尊十一面観音像をつくらせる。
関連頁 長谷寺(長谷観音)の絵馬を見る
にちぞう
日像
(1269-1342)
鎌倉末期の日蓮宗の僧。四条門流の祖。下総平賀(千葉県)の人。俗姓は平賀。通称、肥後阿闍梨(あじゃり)。号は竜華寿院。
七歳で出家して日蓮・日朗に師事。
日蓮の遺命により京都に出て宗旨を広めたが、他宗の圧迫により三度追放された。元亨(げんこう)元(1321)年京都で最初の日蓮宗寺院の妙顕寺を開創。建武(けんむ)元(1334)年同寺は勅願寺となった。
著作に「法華宗旨問答抄」「本尊相承」
関連頁 國前寺
にちれん
日蓮
(1222-1282)
鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。字(あざな)は蓮長。諡号は立正大師。安房(あわ)小湊の人。
12歳で仏門に入り、諸宗を各地で学ぶ。「法華経」によってのみ末世の国家の平安もありうることを悟り、1253年に日蓮宗を開き、辻説法で他宗を激しく攻撃し、論破した。1260年「立正安国論」を幕府に献じ国難を予言していれられず、伊豆に配流。赦免後も幕府・諸宗批判をやめなかったため竜口(たつのくち)で斬られかけたが、佐渡に流された。許されて、甲斐身延山に隠棲。武蔵国千束郡(東京都大田区池上)で、六老僧を定めて没した。著「開目鈔」「観心本尊鈔」など。

関連頁
べんちょう
弁長
1162-1238
鎌倉初期の浄土宗の僧。字(あざな)は弁阿、号は聖光房。筑前の生まれ。
浄土宗第二祖。鎮西派の祖。はじめ比叡山で天台教学を学び、のち法然の弟子となる。九州で念仏を広めた。鎮西上人。著「浄土宗要集」「徹選択念仏集」など。
ほうねん
法然

(1133-1212)
 諱(いみな)は源空。諡(おくりな)は円光大師・明照大師。黒谷上人・吉水(よしみず)上人とも称される。
比叡山で源光・皇円、次いで黒谷別所の叡空に師事。ほか各地で学び、のち京都・東山吉水に住して善導の「観無量寿経疏」や源信の「往生要集」に啓発され、1175年念仏往生の教えを唱えた(=浄土宗を開く)。
故に旧仏教の批判を受け1207年専修念仏停止により四国・土佐に流罪される。1211(建暦元)年帰洛し翌年没した。著「選択本願念仏集」など。
関連頁 源光院
ゆいえん
唯円

(1222-1289)
鎌倉時代の僧。浄土真宗。親鸞の弟子で「歎異抄」の編著者と目される。常陸(茨城県)河和田に報仏寺をひらく。
正応元年京都で覚如の教義上の質問にこたえた。また覚如の叔父唯善を浄土真宗に改宗させたという。
河和田(かわだ)の唯円とよばれる。

関連頁
ゆいえん
唯円

(生没年未詳)
鎌倉時代の僧。浄土真宗、親鸞の弟子二十四輩の一人。俗名を橋本網宗という武士で、一子の死に際し出家。
常陸鳥喰(とりばみ)=茨城県那珂町に一寺をひらく(遺跡は常陸太田市の西光寺)。
鳥喰の唯円とよばれる。
関連頁
ゆうてん
祐天
(1637-1718)
江戸時代の浄土宗の僧。字(あざな)は愚心。号は明蓮社顕誉。
増上寺で修行。のち、名声を嫌って各地を遍歴したが将軍家の尊信が厚く、1711年増上寺第三六世を継ぎ、大僧正となった。

関連頁
れんにょ
蓮如
(1415-1499)
室町〜戦国時代の僧。法名は兼寿。号は信証院。諡号は慧灯(えとう)大師。存如(1396-1457浄土真宗の僧)の長男。浄土真宗中興の祖。
青蓮院(しょうれんいん)で得度し、中納言広橋兼郷の猶予(ゆうし)となる。康正(こうしょう)三(1457)年本願寺八世をつぐ。比叡山延暦寺の衆徒の襲撃をさけて文明三(1471)年越前(福井県)吉崎に道場をひらき、「御文(おふみ)」をしたためて布教につとめる。文明十年山城(京都府)山科(やましろ)に本願寺を再興。長享二(1488)年の加賀一向一揆では宗徒の暴発をいさめた。晩年大坂石山に坊舎をたて妻子と隠棲した。著作に「正信偈(しょうしんげ)註釈」など。

関連頁 本願寺・広島別院
うべん
良弁 (朗弁)

(689-773)
奈良時代の僧。
日本華厳宗第二祖。義淵に法相宗を学び、奈良東山で苦行。金鐘寺(のち、羂索院)に住し、審祥(しんじよう)を講師としてはじめて華厳の講席を開く。東大寺初代別当、ついで僧正。二歳のとき鷲にさらわれて春日社前の杉(良弁杉)の枝に置かれ、義淵に養育されたという伝説がある。金鐘行者。金鷲菩薩。りょうべん。

関連頁
えしき・おとしき
兄磯城・弟磯城
神武天皇の大和平定物語に登場する兄弟。
天皇の軍隊に対し、磐余(いわれ)の邑(むら)に拠って頑強に抵抗した。
弟磯城はやがて帰順したが、兄磯城は弟の説得にもかかわらず抵抗をやめなかったため、椎根津彦(しいねつひこ)の計略によって忍坂(おさか)、墨坂(すみざか)の両道から攻められ戦死した(日本書紀)。
弟が善者として扱われているが、これは末子成功説話の型によっているのであろう。なお、
磯城地方(奈良県磯城郡)の豪族であった兄弟が、同じ名であるところからすると、共同支配体制が敷かれていたとも考えられる。

関連頁
えんのおづの
役小角
七、八世紀に大和の葛城山にこもって修行した呪術者。妖言を吐いたとの理由で伊豆に流されたと伝えられる。修験道の開祖と仰がれる。役行者(えんのぎようじや)。役優婆塞(えんのうばそく)。神変大菩薩。山上様。えんのしょうかく。えんのおづぬ。
関連頁 室生寺絵馬
のみのすくね
野見宿禰
垂仁天皇の頃の廷臣。出雲の人。
天皇の命により、当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとって投げ殺し、以後朝廷に仕えた。皇后日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなったとき、殉死にかえて埴輪を埋めることを建言していれられ、土師臣(はじのおみ)の姓を与えられたという。

関連頁 防府天満宮
おおえのひろもと
大江広元
(1148-1225)
鎌倉初期の幕府重臣。初め朝廷に仕えたが、源頼朝に招かれ公文所、のち政所(まんどころ)の別当となる。守護地頭の設置を献策するなど幕府体制の基礎固めに尽力。頼朝の死後は北条氏とともに政務をとり、執権政治の確立に寄与。
関連頁 (胡町)胡子神社
さかのうえのたむらまろ
坂上田村麻呂
(758-811)
平安初期の武将。桓武・平城・嵯峨の三天皇に仕え、征夷大将軍として蝦夷(えぞ)地を平定、薬子(くすこ)の乱鎮定にも功を立て、正三位大納言にのぼる。また、京都清水寺を草創。
関連頁 清水寺絵馬
すがわらのみちざね
菅原道真
(845-903)
平安前期の学者・政治家。是善の子。菅公(かんこう)・菅丞相(しようじよう)と称される。
宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。この間894(寛平6)年遣唐大使に任命されたが建議して廃止。901(延喜元)年藤原時平の讒訴(ざんそ)で大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。性謹厳にして至誠、漢詩・和歌・書をよくし、没後学問の神天満天神としてまつられた。「類聚国史」を編し、「三代実録」の編纂(へんさん)参与。詩文集「菅家文草」「菅家後集」
関連頁 太宰府天満宮防府天満宮
たけうちのすくね
たけしうちのすくね

武内宿禰
記紀所伝の人物。『日本書記』には、屋主忍男武雄心命やぬしおしおたけおごころのみことの御子で第八代孝元天皇の皇子・彦太忍信命の孫
大和朝廷の初期、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝に二百数十年仕えたという。蘇我・葛城・巨勢・平郡氏の祖とされる。

関連頁 中須賀神社
たんけい
湛慶
(1173-1256)
鎌倉時代の仏師。運慶の子。
洗練された温和な作風をもち、三十三間堂の千手観音、雪蹊寺の毘沙門天三尊などを造った。
関連頁 三十三間堂絵馬
はらそうえもん
原惣右衛門

1648-1703
江戸時代前期の武士。名は元辰(もととき)。播磨(兵庫県)赤穂藩士。四十七士のひとり。
藩主浅野長矩(ながのり)の切腹処分を江戸から第2陣使者として国元赤穂にはせ知らせる。大石良雄の補佐役をつとめ、仇討ちをはたした。元禄六年2月4日切腹。変名は和田元真、前田善蔵。
関連頁 圓隆寺
ひのすけとも
日野資朝
(1290-1332)
鎌倉末期の公卿(廷臣)。俊光(1260-1326、公卿、歌人)の次男。従三位。
後醍醐天皇に登用され、参議・権中納言などを歴任。討幕運動の中心人物となったが、1324(正中元)年計画が露顕して捕らえられ、佐渡に流されて処刑された(正中の変)。再度の討幕計画(元弘の乱)が失敗して天皇が隠岐に流された際、正慶元年(=元弘2年)6月2日配所で殺された。

☆(辞世)五蘊仮に形を成し 四大今空に帰す 首(こうべ)を将(も)って自刃に当つ 截断一陣の風
関連頁 真野宮絵馬
のぎまれすけ
乃木希典
1849-1912
陸軍軍人。長門(山口県)府中藩士の子。明治37年陸軍大将、明治40年学習院院長。
明治4年陸軍少佐となり西南戦争に従軍。日清戦争
に歩兵第一旅団長として従軍。台湾総督などをへて、日露戦争では第三軍司令官として旅順攻撃を指揮。明治天皇の大葬の日(大正元年9月13日)に静子夫人(1859-1912)とともに殉死。
関連頁 乃木神社絵馬
みなもとのよりまさ
源頼政
1104-1180
平安末期の武将。従三位に進み出家して源三位(げんざんみ)入道と称された。
平治の乱では、平清盛につく。1180年以仁王(もちひとおう)を奉じて平氏追討のために挙兵したが宇治で敗死。宮中の鵺(ぬえ)退治などの武勇にすぐれ、和歌にも長じたことから、後世、謡曲・浄瑠璃などに脚色された。家集「源三位頼政卿集」

関連頁 鶴羽根神社
やまざきちょううん
山崎朝雲
1867-1954
木彫家。筑前(福岡)博多櫛田前町生まれ。本名は春吉。別号に羯摩(かつま)。
仏師高田又四郎にまなび、高村光雲に「養老孝子」がみとめられ入門。明治40年米原雲海らと日本彫刻会を結成。芸術院会員。昭和27年文化功労者。伝統的な木彫に写実的表現を加味した作風。作品に「大葉子(おおばこ)」「(たかおかみ)」など。

関連頁 霊山観音絵馬
よしだ しょういん
吉田松蔭
1830-1859
幕末の思想家。長州藩士。
兵学を研究し、江戸で佐久間象山らに学ぶ。ペリー来航時に海外密航を志して失敗、入獄。萩で松下村塾を開き、高杉晋作・久坂玄瑞ら尊皇攘夷運動指導者を多数教育。安政の大獄で刑死。

関連頁 松蔭神社絵馬
尊称、敬称は略しました 資料  三省堂:大辞林、 講談社版:日本人名大辞典ほかより



神社仏閣関連人物編豆知識一覧
広島ぶらり散歩へ










inserted by FC2 system