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あんとくてんのう
安徳天皇
(1178-1185) |
平安時代後期、第81代天皇(在位
1180-1185)。高倉天皇の第1皇子。名は言仁(ときひと)。
母は平清盛の娘建礼門院徳子。二歳で即位。平宗盛に擁せられて、西国に落ち、壇ノ浦で平氏一門とともに入水した。
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おうじんてんのう
応神天皇 |
記紀の所伝の第15代天皇誉田別命(ほんだわけのみこと)の漢風諡号(しごう)。仲哀天皇の皇子。母は神功皇后。日本書紀によれば、母の摂政下で皇太子にとなり、母の死後即位。
この時期、朝鮮・中国から渡来して技術を移入する者が多く、大和朝廷の勢力が大いに発展した。
墓所は大阪府羽曳野市にある恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)巨大前方後円墳。
「宋書」の倭王讃をこの天皇にあてる説がある。
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くさかべのおうじ
草壁皇子
(662-689) |
天武天皇の皇子。母はのちの持統天皇。
文武天皇・元正天皇の父。壬申の乱で父に従い、皇太子となったが早世。
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こうみょうこうごう
光明皇后
(701-760) |
聖武天皇の皇后。孝謙天皇の母。藤原不比等の娘。名は安宿媛(あすかべひめ)。光明子とも。悲田院・施薬院を設けるなど社会事業を行い、また天皇の東大寺建立を助け仏教興隆に尽くした。王羲之の書「楽毅論」を臨書した巻物は名筆として著名。
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ごしらかわてんのう
後白河天皇
(1127-1192) |
第77代天皇(在位
1155-1158)。名は雅仁。鳥羽天皇の第四皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。
1169(嘉応元)年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。また、今様(いまよう)を好み「梁塵秘抄(りようじんひしよう)」を撰した。
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ごだいごてんのう
後醍醐天皇
(1288-1339) |
第96代天皇(在位
1318-1339)。名は尊治。後宇多天皇の皇子。
親政を企てて正中の変・元弘の変に敗れ、隠岐に流された。1333年脱出し、新田義貞・足利尊氏らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立。のち公武の不和から親政は失敗し、尊氏らも離反、36年吉野に移り南朝を立てた。
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ごならてんのう
後奈良天皇
(1496-1557) |
第105代天皇(在位
1526-1557)。名は知仁(ともひと)。後柏原天皇の第二皇子。
在位中は皇室が最も衰微した時期で、践祚(せんそ)の10年後に後北条・今川・朝倉・大内氏らの献金でようやく即位式を行なった。日記「天聴集」がある。名筆として著名。
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さいめいてんのう
斉明天皇
(594-661) |
日本書紀で第37代天皇(在位
655-661)の漢風諡号(しごう)。第三五代皇極天皇の重祚(ちようそ)。皇居は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)、のち飛鳥岡本宮。百済(くだら)救援軍を率いて九州に下り、筑紫朝倉宮で病死。
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じゅんとくてんのう
順徳天皇
じゅんとくじょうこう
順徳上皇
(1197-1242) |
鎌倉時代、第84代天皇(在位1210−1221)。後鳥羽上皇の息子。兄・土御門天皇の譲位をうけ14歳で即位。父の院政下にあって、皇子・仲恭天皇に位をゆずり、父とともに鎌倉幕府の転覆をはかった1221(承久3)年承久の変に失敗、北条義時によって佐渡に流された、46歳で亡くなるまでの22年間を佐渡で過ごされた。墓所は京都左京区、大原陵(みささぎ)。著作に「禁秘抄」「八雲御抄」
☆ももしきや古き軒端の忍ぶにもなほ余りある昔なりけり (小倉百人一首)
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しょうとくたいし
聖徳太子
(574-622) |
用明天皇の皇子。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后。名は厩戸豊聡耳(うまやどのとよとみみ)皇子。上宮太子(うえのみやのみこ)・法大王(のりのおおきみ)・上宮聖王などとも呼ばれた。聖徳太子は諡号(しごう)。
推古天皇の摂政として冠位十二階・十七条憲法を制定。小野妹子(いもこ)を隋に派遣して国交を開いた。また、広く学問に通じ、深く仏教に帰依(きえ)して、法隆寺・四天王寺ほか多くの寺院を建立するなど仏教振興に尽くした。著「三経義疏」
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しょうむてんのう
聖武天皇
(701-756) |
第45代天皇(在位 724-749)。名は首(おびと)。文武天皇の第一皇子。
光明皇后とともに仏教を厚く信仰。全国に国分寺・国分尼寺を置き、東大寺を建立して大仏を造立した。その書「雑集」は、繊細な筆致の名筆。
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じんぐうこうごう
神功皇后 |
記紀所伝の仲哀天皇の皇后。父は気長宿禰王、気長足姫(息長帯比売)(おきながたらしひめ)の漢風諡号。
「日本書紀」によれば、天皇の熊襲征討にしたがい筑紫におもむいたが、天皇の急死。翌年みずから兵を引き、新羅に出陣百済、高句麗を帰服させた。、凱旋ののち筑紫の地で応神天皇を出産、69年間摂政をつとめたという。「播磨風土記」などでは大帯姫(おおたらしひめ)とも。
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じんむてんのう
神武天皇 |
記紀に第1代と伝える天皇。
神武という名は8世紀後半に贈られた中国風の諡号(しごう)である。
『日本書紀』によれば、国風諡号は神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)。
高天原から南九州の日向に降った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫で、鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の第4子、母は海神の女(むすめ)玉依姫(たまよりひめ)。
45歳のとき、船軍を率いて日向を出発し、難波に上陸して大和に向かおうとしたが、土地の豪族軍に妨げられ(東征)、紀伊半島を迂回して熊野から大和に入り、日向出発以来、6年目(『古事記』では16年以上かかる)で大和平定に成功し、辛酉(かのととり)の年元旦、畝火(うねび)(橿原市の地)の橿原宮で初代の天皇の位につき、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と讃えられた(大和平定)。
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すとくてんのう
崇徳天皇
(1119-1164) |
第75代天皇(在位
1123-1141)。名は顕仁(あきひと)。
鳥羽天皇第一皇子。鳥羽上皇の圧力で異腹の近衛天皇に譲位、新院と称した。のち保元の乱を起こし、讃岐(さぬき)に配流され、同地で没した。墓を白峰(しらみね)陵という。讃岐院。
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ちゅうあいてんのう
仲哀天皇 |
記紀の所伝で、第14代天皇。足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)の漢風諡号。日本武尊(やまとたけるのみこと)の第二王子。皇后は気長足姫(おきながたらしひめ)(神功皇后)。熊襲(くまそ)征討におもむき筑前橿日宮(かしひのみや)で没したという。
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てんむてんのう
天武天皇
(?-686) |
日本書紀で第40
代天皇の漢風諡号(しごう)(673-686)。名は大海人(おおあまの)皇子。和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)。舒明天皇第三皇子。兄、天智天皇の皇太子となったが、天皇の死に際し、吉野に退去。672年挙兵して、大友皇子を破り、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に即位。
在位中、国史の撰修に着手、八色姓(やくさのかばね)を制定し、律令体制を推進した。
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なかみかどてんのう
中御門天皇
(1701-1737) |
第114代天皇(在位
1709-1735)江戸中期(幕府は6代家宣・7代家継・8代吉宗)。名は慶仁(やすひと)。幼名は長宮(ますのみや)。東山天皇第五皇子。
父の譲位を受けて即位するが、父の時代に復活した大嘗祭はまた中止となる。墓所は京都東区、月輪陵。著作に「公事部類」などがある。
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めいじてんのう
明治天皇
(1852-1912) |
第122代天皇(在位 1867-1912)。名は睦仁(むつひと)。幼名、祐宮(さちのみや)。孝明天皇第二皇子。母は中山慶子(1836★-1907)。
父の死により1867(慶応3)年践祚し、その10ヶ月後幕府は大政を奉還。五箇条の誓文を公布し、新政府の基本方針をしめす。明治と改元して一世一元とさだめ、京都から東京へ遷都。欧米の制度や文化をみならい、政治・経済・社会・教育・軍事を改革し、大日本帝国憲法や教育勅語などを発布して、立憲国家・近代国家確立に献身した。在任中、日清戦争・日露両戦争、大逆事件がおこり、韓国併合がおこなわれた。和歌をこのみ約10万首の詠歌をのこした。墓所は伏見桃山陵。
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やまとたけるのみこと
日本武尊
倭建命 |
景行天皇の皇子。
古事記の構想では、神武の大和平定後、孝霊・崇神と引き継がれる国内における王化の拡大の歴史の完成者として位置づけられる。西の熊襲(くまそ)討伐・東征などは、その具体的活動。
なお、日本書紀では、景行自身の九州・東国巡行とともに日本武尊の西征・東征が語られ、景行による国内平定という色彩が強い。小碓命(おうすのみこと)。倭男具那命(やまとおぐなのみこと)。
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