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中区基町の広島市民球場一塁側ブルペンに取り付けられている(取り付けられていた)「津田プレート」です。
※広島市民球場が中区から南区へ新築移転しましたので新球場にこのプレートも移設されています。 |
2007(平成19)年1月3日の中國新聞『広島市民球場50年「楽しみは試合だけじゃない」』という記事をみて、わたしは、(通称)「津田プレート」をぜひに拝見したいと思ったのです。
ガードマンの方に予約制ですのでと云われたのですが、がっかりしているわたしをみて、球団管理事務所で用件を話されたらと・・・球団管理事務所で話すと仕事中ではありましたが(開錠施錠などがあるため)案内するとわざわざ連れて行っていただき撮影しました。見学者を大切にするカープ球団を実感し、わがカープの今シーズンの飛躍そして優勝を願いながら球場を後にしました。 |
顕彰板は銅製ですので汗などで変色している処がわかり、確かに多くの投手が登板する前にこのプレートに手を添えたようでした、案内してくださった球団職員の方は汚れているようでも銘版を拭いたりは出来ないのですよと云われていました。普段は薄暗いとかで懐中電灯をもって着ておられましたが、訪ねた時がたまたま夕陽が入る時間でプレートがよく見えてよかったですねと云われていました。
また、帰るときHPに掲載するというわたしにプレートの文字がわからなかったらいけないと、津田顕彰板をゼロックスしたものまで頂き、大変お世話になりました。 |
2009年4月1日中國新聞のスポーツ面に「津田プレート移設」という記事が載っていました。
『旧広島市民球場の「津田プレート」を今(2009)年1月19日取外した。それを2月28日完成式を終えた広島市新球場(通称:マツダスタジアム)の一塁側ブルペンからベンチを繋ぐ通路の壁に、3月31日正午過ぎ、倉捕手・石原捕手・永川投手の三選手がプレート取付ネジ最後の締めつけ作業を行い、新球場への「津田プレート」移設が完了した』そうです。 |
2012年12月20日中國新聞28面(社会面)をみていると『「津田プレート」古里に』という記事に目がとまったのです。
『広島東洋カープは(2012年12月)19日、山口県周南市出身の故津田恒美投手をたたえる「津田プレート」の複製5枚を周南市に寄贈した。「津田恒実メモリアルスタジアム」と愛称を付けた周南市野球場(周南市徳山)に取り付ける。恒実は津田投手のプロ野球選手としての最終登録名。
プレートは縦21cm、横30cmの銅製で「直球勝負」「笑顔と闘志を忘れないために」などと記されている。広島市のカープ本拠地マツダスタジアムでは、投手陣がプレートを触って自らを奮い立たせている。
周南市野球球場に津田投手の愛称を付けたのを機に球団側から申し出があり、中国新聞防長本社を通じて寄贈した。市は球場玄関やベンチ、観客席入り口に設置する予定。来場者や選手も触ることができ、2013年3月10日のカープ対横浜DeNAベイスターズのオープン戦でお披露目される。』と云う記事でした。
複製品というもののこの「津田プレート」に関することでしたので、追記しました。
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12.12.24.追記 07.01.08裕・記編集 |
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07.01.07 撮影 |
広島市中区基町5-25 広島市民球場一塁側ブルペン方向をみる |
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07.01.07 撮影 |
一塁側(カープ側)投球練習場の柱に津田恒美顕彰板が取り付けられています。 (案内してくださった職員の方です) |
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07.01.07 撮影 |
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いつもは暗い場所とか・・・
訪れた時、夕陽が差し込んでいました。 |
直球勝負
津田 恒美 (享年32歳)
1982-1991
笑顔と闘志を忘れないために。
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初出場 |
1982.4.10 (対大洋2回戦/広島市民球場) |
初勝利 |
1982.4.29 (対大洋6回戦/横浜スタジアム) |
生涯成績 |
49勝41敗 90セーブ |
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津田 恒実(つだ つねみ) (1960 - 1993) (※恒実は1985年より) |
プロ野球選手(投手)。山口県出身。南陽工業高卒。「恒美」旧名。愛称「ツネゴン」、直球勝負・人呼んで「炎のストッパー」。
ノンプロの協和発酵を経て、1981(昭和56)年ドラフト1位で広島東洋カープ入団。1年目1982(昭和58)年先発投手11勝6敗球団初の新人王。1986(昭和61)年抑え投手でカムバック賞、チーム5度目のセ・リーグ制覇に貢献。1989(平成元)年12勝5敗28セーブ最優秀救援投手。1990(平成2)年シーズン終了後から身体変調訴える。1991(平成3)年4月14日読売戦登板(9球でマウンドを降り)敗戦投手、生涯最後の登板。1993(平成5)年7月20日32歳悪性脳腫瘍で死去。 |
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年度 |
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試合数 |
勝数 |
敗数 |
セーブ |
奪三振 |
防御率 |
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1982 |
昭和57年 |
31 |
11 |
6 |
0 |
114 |
3.88 |
1983 |
昭和58年 |
19 |
9 |
3 |
0 |
82 |
3.07 |
1984 |
昭和59年 |
14 |
3 |
4 |
1 |
30 |
4.54 |
1985 |
昭和60年 |
22 |
2 |
3 |
1 |
36 |
6.64 |
1986 |
昭和61年 |
49 |
4 |
6 |
22 |
81 |
2.08 |
1987 |
昭和62年 |
47 |
3 |
4 |
18 |
60 |
1.64 |
1988 |
昭和63年 |
47 |
5 |
9 |
20 |
56 |
3.86 |
1989 |
平成元年 |
51 |
12 |
5 |
28 |
75 |
1.63 |
1990 |
平成2年 |
4 |
0 |
0 |
0 |
7 |
2.70 |
1991 |
平成3年 |
2 |
0 |
1 |
0 |
1 |
27.00 |
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通算 |
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286 |
49 |
41 |
90 |
542 |
3.31 |
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生年月日 |
1960(昭和35)年8月1日 |
出身地 |
山口県新南陽市(現・周南市) |
出身校 |
南陽工業高等学校 |
球歴 |
協和発酵→広島東洋カープ |
1981 |
広島東洋カープドラフト1位・投手入団 |
1982 |
セントラルリーグ・新人王獲得 |
1986 |
セントラルリーグ・カムバック賞受賞 |
1989 |
セントラルリーグ・最優秀救援投手獲得 |
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※ |
1991(平成3)年、前(1990)年から続く体調不良を抱えたまま開幕を迎え、4月14日(無理を押して)広島市民球場で行われた讀賣戦に大野豊投手(1955- )とのダブルストッパーの一番手として登板しましたが、大乱調のためたった9球でマウンドを降りました。
生涯最後の対戦打者・原辰徳選手(1958- )にタイムリーヒットを打たれ敗戦投手となりました。これが津田投手生涯最後の登板となりましたが、この年チームは津田投手の病気を知り奮起、リーグ優勝をしました。 |
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