(桐原容器工業所)被爆煉瓦壁のモニュメント

  中区舟入南の(株)桐原容器工業所にモニュメントとして残されている「被爆したレンガ壁」の一部です。
   被爆レンガ壁
   (爆心地から約2,460m)
このレンガ壁は、1900年より前に建設された建物内で、戦前、樽用木材の乾燥室の外壁として使用していたものです。
被爆時、この倉庫を含む工場の屋根は吹き飛ばされましたが、レンガ壁は爆風に耐え、2013(平成25)年の新工場建設時まで姿を残していました。
    株式会社 桐原容器工業所
中國新聞2013年10月田中美千子記者の記事でこのモニュメントが出来たことを知りました。
『段ボール容器製造の桐原容器工業所が、広島市の被爆建物に登録されていた工場の建替えに当たり、レンガ壁のモニュメントを造りました。同社経営者が「原爆被害を後世に伝えよう」と部分保存を決めました。
正門付近に設置したモニュメントは縦横が各≒100cm。奥行≒45cm。
2013年3月の工場解体時、レンガ壁の一部を切り取って移設、台座に被爆状況の説明文と解体前の写真のパネルを嵌め込んでいます。
1900(明治33)年「セメント樽」仕組材料の製造を広島市鶴見町で創業。
1902(明治35)年頃(現在地)広島市舟入川口町本川尻へ移転。
1945(昭和20)年8月6日爆心地南西≒2,460mで被爆。
 社員に原爆犠牲者はいなかったが、工場施設の多くは爆風で倒壊。
 レンガ壁は屋根が吹き飛ばされながらも残った倉庫の一部でした。
倉庫は、修復や増改築を重ねましたが、工場に転用後も、被爆したレンガ壁は2区画(各縦4m、横18.5m)残していました(ので)。1996(平成8)年(広島市の)被爆建物に登録されました。・・・・』
この桐原容器工業所の被爆建物の見学・撮影が出来なかったことでの残念な思い出を拭い去ることができないのです。
(わたしは)2004年ころから被爆建物などを訪ね撮影し頁を編集していたのです。

ここ桐原容器工業所へは2008年4月でしたか?まだ建物の壁として残っていた時で、会社入口に居られた社員の方に見学と撮影をお願いしたのですが、
『あなたは何処かの平和活動している会の人ですか?』と尋ねられたので、「単なる広島市民で平和活動家(という範疇の人間)ではないです。」と答えたら、見学・撮影(の案内)は出来ませんと云われて、断れたことがあったのです。
交流ウォークK会長に話したら、広島市が認めている会だから“まちづくり交流ウォーク”の会員ということで見学・撮影を申し込んだらと云われましたが、単なる広島市民の見学を断るような被爆建物を紹介する気にはならなかったのです。
のち、ここでで取り上げたモニュメントが2013年に造られたことを中國新聞記事(上記)で知りましたが、この時も撮影に行って頁を編集する気にもならなかったのです。
時は過ぎ、2022年(通称)一軒茶屋跡公園に行ったので、そのついでに自由に撮影できるこのモニュメントを撮影してみるかと思って立寄って撮影したのです。
22.07.03.裕・記編集

22.06.23.撮影
広島市中区舟入南4-1-11 桐原容器工業所

22.06.23.撮影

22.06.23.撮影

22.06.23.撮影
被爆レンガモニュメント

22.06.23.撮影

22.06.23.撮影



「被爆した建物・構築物」編



広島ぶらり散歩へ
(桐原容器工業所)被爆レンガ壁のモニュメント
(通称)一軒茶屋跡公園
   懐かしの一軒茶屋・説明板


inserted by FC2 system