消えた広島の川のことなど

  この頁では、広島市を過って流れていた川のことなどを取り上げてみました。
広島の街が瀬戸内海に流れる太田川(水系の七つの川)のデルタ地帯に発展してきたことはご存知のことでしょう。
東から猿猴川・京橋川・元安川・本川・天満川・福島川(戦後埋立)・山手川(戦後拡幅太田川放水路)です。
※現在は六つの川:猿猴(えんこう)川・京橋川・元安川・本川(太田川本流)・天満川・太田川放水路になっています。
広島市内の河川は、主として一級河川太田川の流域にあり、少数が瀬野川流域、八幡川流域及び単独に流れています。
平成11(1999)年4月1日現在、河川数は556本で総延長は696.6kmに達し、このうち広島市が管理するものは499本、391.6kmであるそうです。平成11(1999)年4月1日現在の広島市内の橋梁は永久橋2,612、木橋50、合わせて2,662橋だそうです。
上記の資料は広島市環境局平成14年の資料他を参考にしました
広島市の市章の謂れは、旧藝州藩の旗印であった「三つ引」(三)にヒントを得て、これに川の流れを表現するカーブをつけて、水都広島を象徴したもので、明治29(1896)年5月19日に制定されたものです。
それほど広島と川は切っても切れぬものとなっています。江戸時代には西国街道部分に架かる橋以外はごく一部しか橋はありませんでした、広島の橋は明治以降になって整備されてきたものがほとんどなのです。
広島の橋々の頁を編集していると、広島市の過って流れていて川が消えていった事を少し知ったりしました。この頁は、(知った時に追記して行ったもので)体系的に編集したものではないことをお断りしての編集です。 
08.05.28更新     05.08.01追記編集
  消えた広島の川(上記の福島川以外をここで取りあげていきたいと思っています)
古川 藩政時代埋立 いまの大須賀町で京橋川から分かれて東南のガラガラ橋、片河(かたこう)方面に流れていました。
埋立地(現在の曙町方面)に古川村がありました。
流川 藩政時代埋立 京橋川から取る縮景園の池の水が南に流れたのが流川です。
流域に上流川町と下流川町があり、かっての下流川は繁華街の流川通りです。
西堂川
(西塔川
明治末埋立 広島城外堀から堀川として南に流れて、紙屋町、白神社から鷹野橋に至った川でした。
島普請の時、運河としての役目をしその後も舟運による物資補給路として重要な役目をしました。
1912(大正元)年埋立地に電車が通り宇品へ至る動脈となりました。現在のほぼ鯉城通りです。
城北川 大正初埋立 現在の三篠橋附近から常葉橋の方へ南東に流れていました。
埋立で基町と白島(箱島)は陸続きになり白島は島でなくなりました。現在の城北通りと思われますが・・・
平田屋川
(竹屋川)
昭和30年頃 八丁堀から御幸橋の方に向かって南に流れていました。
島普請の時運河としての役目をしました。
1945(昭和20)年8月6日原爆の時、本通以南ではこの川に飛び込んだという(移動演劇さくら隊原爆殉難碑を調べている時に知ったのです)。
1955(昭和30年)頃に南竹屋町の富士見橋附近まで埋め立てられ、されに南の旧広島大学、千田小学校の東側が埋立てられたのは数年後だったそうです。
上記の資料は広島都市生活研究所発行河岸の戦後史などを参考にしました



「広島の橋」編



広島ぶらり散歩
わたしがみてきた広島の橋一覧
(現存する)被爆した橋梁
消えた広島の川のことなど


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