「護憲」碑

  安佐北区可部町大字勝木の団地・グリーンライフ一角の墓地に建立されている「護憲」碑です。
*栗原家(栗原唯一・貞子)のお墓の隣に、唯一・貞子の長女・真理子が建立したものです。
*(現在は、碑の建立者・真理子も栗原家のお墓に葬られています。)
(正面) 護憲
(裏面)     日本国憲法
 第二章戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
父: 栗原唯一
母: 貞子
に捧ぐ
1991年2月 長女眞理子建之      ※1991年=平成3年
原爆の惨禍の中新しい生命が誕生する詩「生ましめんかな」などの反核反戦をテーマにした創作活動を(碑建立時78歳であった)していた栗原貞子の長女・真理子(当時58歳)が、護憲運動に生涯をささげた父・唯一のお墓の横に『憲法擁護の立場を貫いた父の遺志を引継ぎ、平和の願い、不戦の意志を表したいという思いでこの護憲・碑を建立した。』そうです。
碑建立時母・禎子は健在で78歳、この後2005年3月8日死去。
 栗原唯一(1906-1981)
1931(昭和8)年貞子と結婚。第2次大戦中は安佐郡祇園町(現・安佐南区祗園)の機械工場に徴用され、一家全員が被爆した。戦後は祗園町会議員を経て、1955(昭和30)年から3期県議会議員を務めた(当初無所属、2・3期目は社会党所属)。「戦争をする政治ほど悪い政治は無い」というのが口ぐせで、県議会議員を引退した後も護憲、反戦、人権擁護を叫び続けた。
故人をしのび、その遺志の継承の証として建立されたのが護憲・碑だそうです。
2016年暮れシドニー大学日本研究科の教師をしている方より、「CITIZEN POWER: Postwar Reconciliation」という本を出版しようとしていて、わたしが編集している「生ましめんかな詩碑」の頁の中の画像を借用したいとメールをいただいたのです。
わたしに異存などありませんので、クレジットのお願いはしましたが画像を渡しました。
何度かメールしている中で、2015年被爆70年にもここで取り上げた「護憲」碑を訪ねてもいなかったことを思い出し参考にしている資料で建立場所を確認し、年が明けて2017年撮影してこの頁を編集しました。
被爆詩人の栗原貞子さんがつとに有名ですが、建立当時の栗原唯一さん(貞子さんと連名ですが)に捧げられた碑だったことを再認識しました。
17.02.02.裕・記編集

17.01.12.撮影
広島市安佐北区可部町大字勝木1541附近(団地・グリーンライフ6区の墓地)

17.01.12.撮影
栗原家(栗原貞子)の墓 と 護憲・碑

17.01.12.撮影
  護憲・碑 と 栗原家(栗原貞子)の墓

17.01.12.撮影

17.01.12.撮影

16.09.03.撮影

17.01.12.撮影
 



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



広島ぶらり散歩へ
「護憲」碑
栗原貞子の墓
玉縄神社


inserted by FC2 system