原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

  中区中島町の平和記念公園(国際会議場南)に建立されている「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」です。
※この像の作者は、芥川永です。
太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり
二度と起してはならぬ惨禍と、1971(昭和46)年8月6日、原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会によって、国際会議場南(西)側に建立されています。
被爆歌人正田篠枝さんが占領軍の目をさけ、広島刑務所の印刷部で秘密出版した歌集「さんげ」からのものだそうです。 わたしには到底想像できない光景を目の当たりにした歌人が詠んだ短歌、歌人にこのような歌を詠ませる何たることだとわたしは怒りさえ覚えます。
国民学校教師・子どもの犠牲者数は、教師約200人、子ども約2,000人と推定されているそうです。
1946(昭和21)年被爆歌人正田篠枝さんが占領軍の目をさけ、広島刑務所の印刷部で秘密出版した歌集「さんげ」からとられたものだそうです。
この彫刻作品が刻まれたサインから芥川永作品とわかりました。
1997(平成9)年8月4日碑文の「太」が「大」と一部削られるという事件が起きました(見つかりました)
国民学校(こくみんがっこう)
1941(昭和16)年国民学校令の公布から1947(昭和22)年の学校教育法の公布まで存続しました。
わが国の初等学校(小学校)の名称です。
従来の教科を国民科(修身、国語、国史、地理)、理数科(算数、理科)、体錬科(体操、武道)、芸能科(音楽、習字、図画及工作、裁縫)の四教科に統合し、太平洋戦争への総力戦体制に対応して言行一致・心身一体の皇国民錬成の教育を目ざしたもので、学校行事や団体訓練が重視されました。
国民学校は初等科6年、高等科2年とし、この8年を義務教育と定めましたが、実施延期のまま敗戦を迎えました。
2002年撮影してこの頁を編集しました。
2007年・2009年2015年2月撮影しましたので画像を加え頁を更新しました。
2015年(通称)平和記念式典後立寄りました。碑の前では平和集会が催されていましたが、像に近づき撮影しましたので、画像を見直し、頁を再編集しました。
2017年この碑の裏側から表側から少し引いて撮影していましたので、頁を更新しました。
19.06.20.更新    02.02.15裕・編集

02.08.06.撮影
広島市中区中島町1 平和大通緑地(国際会議場南西)

02.08.06.撮影
















































































02.08.06.撮影

03.01.06撮影

03.12.04撮影

06.08.05.撮影
2006年原爆忌の前日、この像後ろの平和大通りを街宣車が大きな音量でアジ演説しながら通って行きました

07.11.23.撮影

09.07.07.撮影

09.07.07.撮影

15.02.08.撮影
折鶴を吊るす棚が鋼製(以前は仮設の木製でした)になっていました

15.02.08.撮影

15.08.06.撮影

15.08.06.撮影

17.06.23.撮影
平和大通の方からこの碑の裏側をみました

17.06.23.撮影

17.06.23.撮影

17.06.23.撮影
≒北側からこの碑の表側をみました
*敬称は略しています。



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