2012(平成24)年 平和宣言

  今(2012)年平和宣言も昨年に続き、公募して選んだ被爆者3人の体験談の一部を引用していました。
被爆体験を伝承する養成事業を開始したと述べていましたが、被爆二世として、広島市長として(昨年市長就任した現市長に遅い判断と云うべき事ではないのかもしれませんが、遅きに失してはいても)やって行かなければならない最低限の事ではないのかと(わたしは)思いながら松井市長のこの姿勢には支持をおしみません。
国論としてはまだ定まっていないということからでしょうか?「核の火」の平和利用の是非には言及を避けていました。放射能に苦しみ、いまだ放射能(による原爆症など)で苦しんでいる人々が身近にいる広島市の市長として「日本政府は市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください」という(待ちの)言葉でいいのだろうかと宣言文をみたときわたしは思いました。
政府に少なくとも将来的には原発なきエネルギー政策を広島市長として望むというような一歩も二歩も踏み込んだ(打って出る)発言が必要なのではとも思いました。
広島市の平和政策にしても迎える平和を標榜していますが、市長自ら世界に向け(打って出て)平和市長会議加盟都市を増やしていくことなども必要なのではと(わたしは)思うのです。
広島市の式典式次第の冊子に平和記念宣言がありますので、式典がはじまる前に(式典会場の折りたたみ椅子に座ってわたしは事前に)読んでいました。市長の平和宣言中に文章を追いながら聞いていました。
「幼児」を「おさなご」。「政治判断」を「せいじけつだん」と云って(読んで)いました。
秘書が書いた原稿に目を通してはいたのでしょうが、自分で書いた文章ではないので単なる読み間違いかなと思いますが、「政治決断」と間違った処は、『黒い雨降雨地区の拡大に向けた政治判断』というくだりでしたので、野田総理大臣、厚生労働大臣が出席している上での「政治決断」をとの読み変えかなと心の中で拍手しながら穿った見方を(わたしは)しましたが。
1945年は昭和20年で8月6日は月曜日でした。
ようじ
幼児
1) おさない子。おさなご。
2) 児童福祉法で、満1歳から小学校に就学するまでの子供。
おさなご
幼子;幼児
幼い子。ようじ。
せいじ
政治
1) 主権者が、領土・人民を治めること。まつりごと。
2) ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、
  社会の意思決定を行い、これを実現する作用。
はんだん
判断
1) 物事の真偽・善悪などを見極め、それについて自分の考えを定めること。
3) 《 judgment ; (独) Urteil 》 論理学で、ある対象について何事かを断定する思考作用。
   また、その言語表現。普通は「sはpである」「sはpでない」という形式をとる。
けつだん
決断
1) 意志をはっきりと決定すること。例文「決断を迫られる」
2) 正邪善悪を判断・裁決すること。
官僚出身のいわゆる手堅い政治を求めているのでしょう、行政的にはそれはそれで間違ってはいないのかもしれませんが、被爆地の市長として積極的な発言も必要で、市長としての判断するだけではなく決断も必要なのではと思ったりしながらこの頁を編集しました。
 12.08.07.裕・記編集

12.08.06裕撮影
平和宣言中の松井一実広島市長
  1945年8月6日8時15分、私たちの故郷は、一発の原子爆弾により灰じんに帰しました。帰る家や慣れ親しんだ暮らし、大切に守ってきた文化までもが失われてしまいました。―「広島が無くなっていた。何もかも無くなっていた。道も無い。辺り一面焼け野原。悲しいことに一目で遠くまで見える。市電の線路であろう道に焼け落ちた電線を目安に歩いた。市電の道は熱かった。人々の死があちこちにあった。」―それは、当時20歳の女性が見た街であり、被爆者の誰もが目の当たりにした広島の姿です。川辺からは、賑やかな祭り、ボート遊び、魚釣りや貝掘り、手長えびを捕る子どもたちの姿も消えてしまいました。

そして原爆は、かけがえのない人の命を簡単に破壊してしまいました。―「警防団の人と一緒にトラックで遺体の収容作業に出る。少年の私は、足首を持つように言われ、つかむが、ズルッと皮がむけて握れない。覚悟を決めて指先に力を入れると、滴が垂れた。臭い。骨が握れた。いちにのさんでトラックに積んだ。」―この当時13歳の少年の体験のように、辺り一面は、無数の屍が重なり、声にならない呻き声の中、息のない母親のお乳を吸い続ける幼児
、死んだ赤子を抱き締め虚ろな顔の母親など、正に生き地獄だったのです。

当時16歳の少女は、大切な家族を次々と亡くしました。―「7歳だった弟は、被爆直後に全身火傷で亡くなり、ひと月後には、父と母、そして13歳の弟と11歳の妹が亡くなりました。唯一生き残った当時3歳の弟も、その後、癌で亡くなりました。」―広島では、幼子からお年寄りまで、その年の暮れまでに14万人もの尊い命が失われました。

深い闇に突き落とされたヒロシマ。被爆者は、そのヒロシマで原爆を身を以て体験し、後障害や偏見に苦しみながらも生き抜いてきました。そして、自らの体験を語り、怒りや憎しみを乗り越え、核兵器の非人道性を訴え、核兵器廃絶に尽力してきました。私たちは、その辛さ、悲しさ、苦しみと共に、その切なる願いを世界に伝えたいのです。

広島市はこの夏、平均年齢が78歳を超えた被爆者の体験と願いを受け継ぎ、語り伝えたいという人々の思いに応え、伝承者養成事業を開始しました。被爆の実相を風化させず、国内外のより多くの人々と核兵器廃絶に向けた思いを共有していくためです。

世界中の皆さん、とりわけ核兵器を保有する国の為政者の皆さん、被爆地で平和について考えるため、是非とも広島を訪れてください。

平和市長会議は今年、設立30周年を迎えました。2020年までの核兵器廃絶を目指す加盟都市は5,300を超え、約10億人の市民を擁する会議へと成長しています。その平和市長会議の総会を来年8月に広島で開催します。核兵器禁止条約の締結、さらには核兵器廃絶の実現を願う圧倒的多数の市民の声が発信されることになります。そして、再来年の春には、我が国を始め10の非核兵器国による「軍縮・不拡散イニシアティブ」の外相会合も開催されます。核兵器廃絶の願いや決意は、必ずや、広島を起点として全世界に広がり、世界恒久平和に結実するものと信じています。

2011(*平成23)年3月11日は、自然災害に原子力発電所の事故が重なる未曾有の大惨事が発生した、人類にとって忘れ難い日となりました。今も苦しい生活を強いられながらも、前向きに生きようとする被災者の皆さんの姿は、67年前のあの日を経験したヒロシマの人々と重なります。皆さん、必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります。

あの忌まわしい事故を教訓とし、我が国のエネルギー政策について、「核と人類は共存できない」という訴えのほか様々な声を反映した国民的議論が進められています。日本政府は、市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください。また、唯一の被爆国としてヒロシマ・ナガサキと思いを共有し、さらに、私たちの住む北東アジアに不安定な情勢が見られることをしっかり認識した上で、核兵器廃絶に向けリーダーシップを一層発揮してください。そして、原爆により今なお苦しんでいる国内外の被爆者への温かい支援策を充実させるとともに、「黒い雨降雨地域」の拡大に向けた政治判断
をしてください。

私たちは、今改めて、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、この広島を拠点にして、被爆者の体験と願いを世界に伝え、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、ここに誓います。
2012(平成24)年8月6日 広島市長  松井 一實  
◇上記宣言文は、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」会場で配られている式次第の中にある「平和宣言(日本語)」を転記しました



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