(被爆した建物)日本貨物鉄道(株)広島車両所

  東区矢賀にある「(被爆した)日本貨物鉄道(株)広島車両所」です。
資料によると
山陽本線輸送強化の一環(軍部の要請・兵員や軍事物資)として機関車修理工場の矢賀町設置が決定し、1940(昭和15)年10月から始まった工事は資材・作業員不足に悩まされ、作業員の大半は朝鮮からの徴用工が充てられたそうです。
この「広島鉄道局広島工機部」は、鉄骨造、平屋で、1943(昭和18)年3月23日に開業しました。
1945(昭和20)年8月6日8時15分原爆によって、機関車修理場(「大建家」:おおだてや)のスレート屋根は大破し、建物の一部は傾きました。木造2階建てだった本場事務所は窓ガラスや屋根瓦が飛散し天井は崩れました。約30人の職員がガラス破片などで負傷しました。
爆心地から≒4,250m    被爆当時町名は矢賀町でした
構内の診療所は臨時救護所とし、被爆した市民が続々とつめかけましたが、昼前には広島鉄道病院の医師や看護婦も治療にあたりましたが医薬品不足で応急処置しかできなかったそうです。
工機部は被爆当日応急整備で休みましたが、翌8月7日には車両修繕を再開しました。

しかし、工場の復旧工事は戦後になって行われました。
1943(昭和18)年3月23日(鉄道省)広島鉄道局広島工機部として開業しました。
1949(昭和24)年6月1日日本国有鉄道(通称:国鉄)に移管されました。
1955(昭和30)年日本国有鉄道広島工場に改称されました。
1985(昭和60)年日本国有鉄道広島車輌所に改称されました。
1987(昭和62)年4月1日国鉄の民営化に伴って日本貨物鉄道(株)広島車両所になりました。
(わたしの編集したこの頁では、現在の名称を標題に採用しています。通称:JR貨物広島車輌所)
資料をみて、この被爆した建物のことは知っていましたが、撮影できないなと思っていたのです。芸備線をしばしば利用するようになり列車の中からわずかに見えるこの建屋を写そうとしましたが巧くいかず、今(2008年)回敷地外から建屋の上部は写せるかなと思い撮影に行きました、「大建家」の屋根中心の画像になりましたが。
2013年府中町をぶらり散歩した後、JR矢賀駅に行こうとしていた時にみると正門根際に動輪が展示してあり正門が開いていましたので、守衛室に立寄って展示動輪の撮影許可を得て撮影している時にふり返って工場も撮影しましたので、画像を追加し、展示動輪の説明板に“広島工場”とありましたので、被爆当時「広島鉄道局広島工機部」だった建物の名称の略沿革を加筆しました。
13.02.12.更新    08.10.22裕・記編集

08.10.12.撮影
広島市東区矢賀5-1-1

08.10.12.撮影
「大建家」屋根の天窓(明り採り)をみました

13.02.02.撮影
正門根際のD51214号動輪展示の処から工場をみました

08.10.12.撮影

08.10.12.撮影

08.10.12.撮影
矢賀駅の跨線橋から建屋の上部がみえました
撮影位置を図示してみました (被爆建物・覚法寺も近くに位置しています)



被爆した建物・構築物」編



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(被爆した建物)JR貨物広島車輌所
(JR貨物広島車輌所)蒸気機関車検修終了記念碑


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