追慕と平和を祈念した土台石・歴清社(被爆時:久永金紙押紙工場)

  西区三篠町の歴清社に建立されている「追慕と平和を祈念した土台石」です。
歴清社の土台石
  玄関先に置かれた御影石は、かって敷地内にあった灯籠の台座として使われていたものです。1945(昭和20)年8月6日に原子爆弾の閃光を浴びましたが、工場の煙突とともにかろうじて残されました。
改築にあたって、先人たちへの追慕と平和への祈念の証とすることをここに記します。
1993(平成5)年4月吉日
久永金紙押紙工場  
1905(明治38)年堀川町で不変色金銀押紙製造開始。1926(大正15)年三篠分工場完成。1928(昭和3)年三篠本町2丁目に移転。
工場は、1943(昭和18)年から陸軍被服廠の包装紙製造に変わっていて、1945(昭和20)年8月6日原爆により工場は全壊全焼し出勤していた約50名の職員多数が負傷されたそうです。
爆心地≒2,200m (被爆当時三篠本町2丁目)
歴清社(れきせいしゃ)
戦前(上記)から金箔や包装紙の製造開発を手がけていたそうで、「久永金紙押紙工場」は、1945(昭和20)年8月6日原爆で破壊されましたが、社業発展し、1954(昭和29)年(株)歴清社を設立。1993(平成5)年3月末新社屋完成。
2004年交流ウォークの時に、また後日撮影してこの頁を編集しました。
2006年(2004年にはなかった広島市設置の)被爆建物のプレートが取付けられていました。
読むと煙突や倉庫の一部が残っていると記述してありましたが、煙突、RC造の倉庫もどうやら外部からは見えないようで一部が現在も利用されているということのようでした。
見学出来ればと思ったのですが、操業中の工場内ですから無理だろうな〜と思ったのです。
2015年久しぶりに訪ね玄関前の「追慕と平和を祈念した土台石」を撮影したので、掲載画像を見直し追加してこの頁を再編集しました。
外回りを撮影した後、社員の方に被爆煙突、倉庫の見学ができないかお願いしてみようと思ったのです。
若い社員の方なら話しやすいと思ったのですが、居られた方は社長か会長と思われる年齢の紳士でしたので、おそるおそる、10年来の思いである、見学のお願いをし、HPで公開したい旨を話しました。
仕事の手を止めることにもなるのに快諾していただき、いまも使用されている被爆した倉庫、操業中の根際に位置する被爆した煙突(工場内の部分)を案内していただき撮影できましたので、別頁で編集しました。
15.08.13.再編集    04.10.31裕・編集

04.10.15.撮影
   広島市西区三篠町3-20-4  

04.10.15.撮影
「被爆した石」が玄関前敷石として使用され、その横に「被爆灯籠の台座」が設置されています

04.10.15.撮影
碑文石

04.10.15.撮影

04.10.21.撮影

06.10.21.撮影
(2004年当時なかった)広島市設置の「被爆建物」プレート

15.07.29.撮影

15.07.29.撮影

15.07.29.撮影



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「被爆した建物・構築物」編



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(歴清社)平和祈念の土台石
(歴清社)被爆した倉庫、煙突


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