広島浅野・赤穂浅野・三次浅野の関係について

  日本人は、忠臣蔵(赤穂浪士の敵討ちを主題とした、浄瑠璃・歌舞伎・実録本などの総称。普通は「仮名手本忠臣蔵」をいう)が好きと云われていますよね。
広島も少なからぬ縁があるのです、広島が浅野本家で赤穂浅野、三次浅野は分家の関係にあることからで、少しばかり紐解いていこうと思っているのです。
明星院に原爆の惨禍をまぬがれた赤穂義士木工像があります、交流ウォークの時に、円隆寺で赤穂義士・原惣右衛門夫婦のお墓を、三滝墓苑で大石内蔵助二女のお墓などなどを教えていただき、それら編集していた頁を今(2007年)回「広島・赤穂藩関連」編項目をつくり、この頁を編集しました。
國泰寺に大石りく、大三郎の墓がある事を知り訪ね、三次市・鳳源寺に義士堂があることなどを知りましたが、まだまだ知らないことも多くあるでしょうから少しづつでも充実したいと思っています。
2013年東京の泉岳寺を訪ねました。
2018年になりましたが、播州赤穂に行き花岳寺、大石神社を訪ねましたので、この頁で取り上げる人物も見直し、追記しました。
18.08.07.更新   07.01.27裕編集
広島浅野宗家と赤穂浅野分家、三次浅野分家の関係図
(赤穂・浅野)
あさのながのり
浅野長矩
1667-1701
江戸前期の大名。播磨国赤穂藩主。内匠頭(たくみのかみ)。
1701(元禄14)年3月14日勅使接待役となったが、殿中で典礼指南の吉良義央(きらよしなか)に切りつけ、即日、切腹・除封の処分を受けた。
ようぜんいん
瑤泉院
1674
-1714
浅野内匠頭長矩の妻。名ははじめ尚姫のち栗姫、さらに阿久里(阿久利)。初代備後国三次藩主・浅野因幡守長治が晩年に成した三女、跡を継いだ浅野式部少輔長照の養女。
1701(元禄14)年3月14日、夫長矩が吉良上野介に殿中刃傷に及び、切腹・藩改易となったため、16日に赤坂の実家・三次浅野家下屋敷に引き取られ、そこで死去。夫浅野内匠頭と同じ江戸高輪泉岳寺に葬られた。
ウィキペディアでは1674(延宝2)年生まれとしていますが、三次市作成の三次出身者資料では1669(寛文9)年としています。 09.01.24追記
(三次・浅野)
あさのながはる
浅野長治
1614-1675
広島藩の支藩・三次藩五万石初代当主。赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室阿久里姫の父親。
男子がなかったため、1657年本家・浅野光晟の次男浅野長尚を養子、まもなく死去、三男浅野長照(1652-1705)を養子に迎え家督を継がせた。
正室は笠間藩主浅野采女正長重(1588-1632:浅野長矩の曽祖父)の姫。
寿正院 浅野長晟(1586-1632) の御局。兵部卿。浅野長治の母。
(お墓から)
寛永18(1641)年歿とわかりましたが、生年はわたしにはわかりません。
あさの ながてる
浅野長照
1652-1705
第2代備後三次藩主。父は安芸広島藩主浅野光晟の三男、母は前田利常の娘・満姫。
1676(延宝4)年4月11日にはじめて三次に入る。子ができなかったため、1682(天和2)年長兄の前広島藩主・綱晟の次男(藩主綱長の弟)長澄を養子に迎えた。1691(元禄4)年12月2日に隠居して長澄に家督を譲る。

1701(元禄14)年3月15日長矩の刃傷事件(赤穂事件)に連座して隠居の長照にも遠慮(江戸城登城禁止)処分が下された。
(廣島・浅野)
あさのながあきら
浅野長晟

1586-1632
浅野長政の次男。幼名、岩松。妻は徳川家康の娘・振姫。
豊臣秀吉のち徳川家康に従い、関が原の戦い、大坂の陣に出陣。1597(慶長2)年従五位下右兵衛佐。1607(慶長12)年但馬守。1613(慶長18)年10月兄幸長(ヨシナガ)の跡を継ぎ37万余石紀伊和歌山藩主第二代となる。1615(元和元)年従四位下。1619(元和5)年7月福島正則(1561-1624)の改易により安芸国および備後国八郡42万6500石に移封、8月8日広島に入城。
あさのつななが
浅野綱長
1659-1708
第3代広島藩主・浅野綱晟(1637-1673)の長男。江戸生まれ。
1673(延宝元)年父・綱晟の死去で、2月25日に家督を相続。9月23日はじめて領地広島へ入る。藩政は祖父・光晟(1617-1693)が長く後見した。
1701(元禄14)年3月14日分家の赤穂藩主・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及び改易切腹。
この後、綱長は広島浅野家への連座を恐れ、用人を赤穂藩に派遣、筆頭家老大石良雄に「穏便に開城を」と迫る。開城後も赤穂浅野家遺臣らの吉良家討ち入りを止めさせるべく、足軽頭などを派遣して進藤俊式(1647-1730:足軽頭)や小山良師(1648-1715:足軽頭)らを説得して同志の盟約から抜けさせるなど切り崩しを図った。
しかし、翌(元禄15)年12月15日吉良上野介邸討ち入りが発生。
その後、大石良雄をはじめとする吉良邸に討ちいった赤穂浪士47士が英雄化するに及んで、本家として手のひらを返す。大石良雄の遺児・大石良武を1500石で召抱えるなどに至る。
あさのながまさ
浅野長政
1547-1611
安土桃山時代の武将。尾張の人。織田信長(1534-1582)・豊臣秀吉に仕える。
文禄の役に軍監として朝鮮に渡る。五奉行の一人。関ヶ原の戦いでは徳川方についた。
とよとみひでよし
豊臣秀吉
1536-1598
安土桃山時代の武将。尾張中村の人。織田信長の足軽木下弥右衛門の子。幼名日吉丸。初名木下藤吉郎。のち羽柴秀吉。織田信長に仕え、軍功によって重用され、筑前守となる。本能寺の変後、明智光秀を討ち、四国・九州・関東・奥羽を征して1590年天下を統一。この間、1585年関白、翌年豊臣姓を賜って太政大臣となり、1591年関白を養子秀次に譲り太閤と称した。また、検地・刀狩りを実施、兵農の分離を徹底し、幕藩体制に至る基礎を築いた。文禄・慶長の役で朝鮮に出兵、戦果があがらないまま、伏見城で病没。
こうだいいん
高台院
1548-1624
豊臣秀吉の正妻。北政所と称される。
愛称ねね(おね)。杉原定利の娘で浅野長勝(? - 1575)の養女。
長生院
? -1616
愛称やや。
叔母夫婦である浅野長勝・七曲の養女。浅野長政を婿養子として浅野家を継ぐ。
とくがわいえやす
徳川家康
1542-1616
江戸幕府初代将軍(1603-1605)。三河岡崎城主松平広忠の長男。幼名竹千代、のち元信、元康、家康と改めた。はじめ今川義元、のち織田信長と結び東海に勢力を拡大、信長とともに甲斐武田氏を滅ぼす。豊臣秀吉の天下統一後はこれに協力、関八州を与えられ、1590年江戸入府。関ヶ原の戦勝を経て1603年征夷大将軍となり、江戸に開幕。将軍職を譲った後も大御所として実権を握り、大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、統一を完成した。
まえだとしいえ
前田利家
1538-1599
安土桃山時代の武将。加賀藩の祖。尾張の人。幼名、犬千代。幼少より織田信長に仕える。賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家についたが、のち豊臣秀吉と和を結び、金沢に封ぜられた。五大老の一人として秀頼を補佐したが、秀吉没後一年にして死んだ。



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