(三次・浅野) |
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あさのながはる
浅野長治
1614-1675 |
広島藩の支藩・三次藩五万石初代当主。赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室阿久里姫の父親。
男子がなかったため、1657年本家・浅野光晟の次男浅野長尚を養子、まもなく死去、三男浅野長照(1652-1705)を養子に迎え家督を継がせた。
正室は笠間藩主浅野采女正長重(1588-1632:浅野長矩の曽祖父)の姫。 |
寿正院 |
浅野長晟(1586-1632) の御局。兵部卿。浅野長治の母。
(お墓から)寛永18(1641)年歿とわかりましたが、生年はわたしにはわかりません。 |
あさの ながてる
浅野長照
1652-1705 |
第2代備後三次藩主。父は安芸広島藩主浅野光晟の三男、母は前田利常の娘・満姫。
1676(延宝4)年4月11日にはじめて三次に入る。子ができなかったため、1682(天和2)年長兄の前広島藩主・綱晟の次男(藩主綱長の弟)長澄を養子に迎えた。1691(元禄4)年12月2日に隠居して長澄に家督を譲る。
1701(元禄14)年3月15日長矩の刃傷事件(赤穂事件)に連座して隠居の長照にも遠慮(江戸城登城禁止)処分が下された。 |
(廣島・浅野) |
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あさのながあきら
浅野長晟
1586-1632 |
浅野長政の次男。幼名、岩松。妻は徳川家康の娘・振姫。
豊臣秀吉のち徳川家康に従い、関が原の戦い、大坂の陣に出陣。1597(慶長2)年従五位下右兵衛佐。1607(慶長12)年但馬守。1613(慶長18)年10月兄幸長(ヨシナガ)の跡を継ぎ37万余石紀伊和歌山藩主第二代となる。1615(元和元)年従四位下。1619(元和5)年7月福島正則(1561-1624)の改易により安芸国および備後国八郡42万6500石に移封、8月8日広島に入城。 |
あさのつななが
浅野綱長
1659-1708 |
第3代広島藩主・浅野綱晟(1637-1673)の長男。江戸生まれ。
1673(延宝元)年父・綱晟の死去で、2月25日に家督を相続。9月23日はじめて領地広島へ入る。藩政は祖父・光晟(1617-1693)が長く後見した。
1701(元禄14)年3月14日分家の赤穂藩主・浅野長矩が吉良義央に刃傷に及び改易切腹。
この後、綱長は広島浅野家への連座を恐れ、用人を赤穂藩に派遣、筆頭家老大石良雄に「穏便に開城を」と迫る。開城後も赤穂浅野家遺臣らの吉良家討ち入りを止めさせるべく、足軽頭などを派遣して進藤俊式(1647-1730:足軽頭)や小山良師(1648-1715:足軽頭)らを説得して同志の盟約から抜けさせるなど切り崩しを図った。
しかし、翌(元禄15)年12月15日吉良上野介邸討ち入りが発生。
その後、大石良雄をはじめとする吉良邸に討ちいった赤穂浪士47士が英雄化するに及んで、本家として手のひらを返す。大石良雄の遺児・大石良武を1500石で召抱えるなどに至る。
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