(みよし) ださいじんじゃ
(三次)太歳神社
  三次市三次町に鎮座している「(三次)太歳神社」です。
祭神:木花佐久夜毘売命
相殿神:天津彦彦火瓊々杵尊、大山祇神
由緒:大同3(808)年12月15日、出雲国神門郡青柳郷(青谷木里)吹上島より勧請と伝えられています。
その後、領主の三吉氏の尊崇篤く、家臣・上里越後守光守を祝師として奉祀しました。永禄年中(1558-1570)三吉豊重が社殿を再建し、天正13(1585)年8月三吉新兵衛自ら御神像を造り奉りました。
三吉氏滅亡後、福島正則((1561-1624)安芸国領となり、家臣・尾関石見守正勝が当社を尊崇しました。福島氏の後は、三次の領主となった浅野長治(1614-1675)によって尊崇され、社殿を修復しました。万治元(1658)年社殿焼失し、その後に再建されました。
(特殊神事)
輪くぐり祭
葦(よし)と榊で作った幣(ぬさ)と人形を持って茅(かや)で作った輪をくぐる。
6月30日に行い、この日より当地(三次町)では浴衣を着る。
広島市では、圓隆寺のとうかさん祭礼が毎年6月の第1金曜日から3日間行われます。
広島ではこの祭りをその年の浴衣の着初めの日としており、夏の訪れを告げる風物詩です。
JR西日本乗り放題切符で三江線の尾関山駅でおり駅を撮影することが主目的ではあったのですが、次の列車までの待ち時間があり過ぎましたので、駅近くでの見どころはと思って地図をみて計画することにしました。
少し離れていましたがこの太歳神社が鎮座していたのです。広島県神社誌をみると掲載されており、由緒がわかりましたので、参拝することにしたのです。
13.12.20.裕・記編集

13.10.19.撮影
広島県三次市三次町1112-2

13.10.19.撮影

13.10.19.撮影

13.10.19.撮影

13.10.19.撮影

13.10.19.撮影
本殿:三間社入母屋造、向拝付、銅板葺(間口二間、奥行二間)

13.10.19.撮影
神石(神籠石)
一. 昔「日朝の出より夕日の入るまで輝き照らす」聖の山として日向山(=比熊山)頂上に天津磐境(あまついわさか)を設け祭祀を行っていました。
一. 808(大道3)年比熊山東麓に太歳神社が創立されてよりは頂上の祭祀は廃止されました。
一. 中世に至り天正年間第13代三吉安房守致高が比叡尾山から比熊山に城を移した時築城の礎石に使用したようです。
一. 1632(寛永9)年浅野因幡守長治が三次藩五万石として分封された折り、築城の代わりに三次周囲に堤防を築いたその堤防に使う石を比熊山の城跡の石垣石を山上より中所に転じ落として利用した。その中に磐境の神籠石があることを知り、長治はさすがに堤防への利用はせず(一部は波跳石として使用されたとも伝わるが)、住吉神社の西側に保存しました。
一. この神籠石(こうごいし)は、1895(明治28)年日清戦役の戦捷記念碑の台石に利用され、松原公園に建設中に道路拡張工事のために太歳神社に戻されました。
一. 現在は台石としてでは粗末になることから、神石と刻書して保存しています。
地上高:270cm、胸高周囲:370cm
磐座・磐境 (いわくら・いわさか)
神社の原始的祭場。自然の岩石またそれに多少の人工を加えたもので、そこに神を招いてまつった。
高天原(たかまがはら)のそれが天津(あまつ)磐境であり、その岩石が扁平で神座にふさわしいものを磐座という。
拝殿前で参拝した後、みると太歳神社の由緒などが書かれたリーフレット(一枚刷りにした印刷物)があり頂いたのです。その中にこの興味深い神石についての由緒(上記)を知りました。
わたしは天津磐境についても知らなかったし、リーフレットにはふりがなが付いていませんでしたので「いわさか」の読みも分からなかったのです。

13.10.19.撮影



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