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世羅郡世羅町大字甲山(旧甲山町)に開館している「世羅町大田庄歴史館」です。
※開館(が毎日ではなく)曜日が決まっていますので見学には注意が必要です。
※中國新聞報道で、2021年10月1日リニュアルオープンしたことを知りました。 |
大田庄歴史館の資料によると、
『古きを訊ねて故郷を創る。世羅町の歴史を振り返るとき、最も注目されるもののひとつに大田庄があります。この今高野山を中心に栄えた備後国大田庄の歴史をより深く知ることの出来る施設として「大田庄歴史館」があり、大田庄に関する数多くの文化財の展示や、学習室、資料室や研究室を備え、その保存と継承に努めています。歴史と文化の諸相に触れることのできる歴史館です。展示は原始古代から中世・近世までの内容を扱っています。』とあり |
開館日: |
水・金・土・日 ※(主催企画展中の木は開館) |
料金: |
@210円/大人。(値上げしたばかりの2016年5月現在) |
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備後大田庄については
『備後大田庄は、平安時代に在地の豪族・橋氏によって開発された庄園と推定されています。
その後平清盛(1118-1181)の子・平重衡(しげひら:1157-1185)の領地となり、さらに大田庄を拡大発展させようと1166(永万2)年に後白河院(1127-1192:天皇在位1155-1158)に寄進しました。1185(寿永4)年平氏滅亡。
後白河院は永代供養料として1186(文治2)年大田庄を紀州高野山根本大塔へ寄進しました。こうして以後約270年間にわたり、大田庄は高野山領として営まれることになったのです。』と紹介しています。 |
(しょうえん)
荘園・庄園: |
日本では、奈良時代(710–794)末以降、貴族や寺社が諸国に私的に領有した土地をいう。
大規模な開墾と地方豪族・農民からの寄進によって平安時代(794–1185)中期に飛躍的に増大し、また不輸不入(ふゆふにゆう)の特権を得て貴族・寺社の経済的基盤となった。
鎌倉・室町時代を通じて、武士勢力の侵略を受け、また商業経済が発達するに及んで次第に衰え、太閤検地(1582以降)によって制度的にも消滅した。
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2016年黄金週間でごった返す道の駅・世羅だったので(食事をしようと思っていたので)すがこれではいつになるかわからないと、町内の食事処を探そうとしたときみたのが康徳寺古墳を案内する道路標識でした。
古墳をしばらく見ていなかったので、古墳を見に行くかと道路標識の矢印の方に入って行ったのです。途中の真行寺に立ち寄り、康徳寺古墳を見学し、康徳寺を訪れた後、道の駅に引き返し、少々遅い昼食をいただき。
食事中、案内所でいただいた「せら(通)リズム」という小冊子をみていると、ここで取り上げた“大田庄歴史館”の紹介がありましたので、康徳寺古墳出土の展示があるだろうからと立ち寄ってみることにしたのです。
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あんなにごった返していた道の駅世羅だったのに、ここ大田庄歴史館の見学者はわが家族だけという寂しさでしたのでもったいない資料館だと思いました。
見学時間を気にしていたわたしはこの歴史館での見どころを館員の方に尋ねたところ館長に聞いていただければと、館長にわざわざ展示の説明をしていただきました。
今高野山龍華寺に行かれましたかと聞かれたので、行っていない、3時を回ろうとしているからこれから世羅ワイナリーに行き帰宅予定ですと話と、帰りにここからすぐの今高野山総門は見学されたらいいのではと教えていただきました。歴史館の見学を終え総門を見に行きました(別頁で編集します)。 |
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2021年10月1日リニュアルオープンしたとの中國新聞(矢野匡洋記者)によると
『来(2022)年に控える今高野山の開基1200年に向け、展示や設備を改修。
平安時代に荘園として栄えた歴史の発信拠点となる。
展示は以前の半分以下の444点に絞り、高野山(和歌山県)に米を納めた大田庄の歴史をたどる。
展示品の説明文を減らした代わりにQRコードを付け、詳細はスマートフォンなどで見られるようにした。
歴史の紹介映像は86インチの大型ディスプレーで見られるようになった。
トイレを一部洋式にした。2階は今後、企画展を行う。改修費は約1,650万円』 21.10.10追記 |
16.05.15,裕・記編集 |