(温品村)戰捷紀念碑
  東区温品の現在温品(ぬくしな)小学校校内に建立されている「(温品村)戰捷紀念碑」です。
※題の揮毫者・田部正荘は、大正6(1917)年から大正10(1921)年まで広島市長を務めました。
※ここには、「雨ニモマケズ風ニモマケズ・碑」「(温品村)戰捷紀念碑」「森川家頌徳碑」の3基が建っています。
 正面: 戰捷紀念碑                                    *戦勝記念碑
   陸軍中將從四位勲二等功三級 田部正荘書
 裏面:            發企者 帝國在郷軍人會 温品村分會
大正五年三月二十一日建之                           
※大正5年=1916年
                       温品村青年團
この石碑は、明治時代から大正時代の戦争に勝ったことを記念碑して、1916年(大正5)年3月に温品村の人々によって建てられたものです。
この石碑は、日本が歩んだこれまでの歴史における一つの事実を物語っています。こ の事実をもとに他の国と戦争していたころの社会の様子や歴史などを学習し、二度と戦争がおこることのないよう、平和の大切さについて考えましょう。
                 1992(平成4)年6月 広島市教育委員会
碑銘からも、そしてこの説明板からも戦争名が記述されていません。
広島市内で、戦役関連碑を少しばかり見てきたわたしは、下記にあげた三戦(の勝利)記念碑ではと思うのです。
教育委員会の説明板には大正時代の戦争とも云っていますが、
第一次世界大戦に参戦して勝利している日本ですが、1914(大正3)年7月28日 ~1918(大正7)年11月11日の戦争です
のでこの碑の建立1916年3月には戦争中だったので対象にはなりません(ので)
日露戦争後に全国各地に在郷軍人会によって建立された戦役関連碑のひとつだと思います。
明治27・8年戦役:
(日清戦争)
1894(明治27)年8月から1895(明治28)年にかけて日本と清国の間で戦われた戦争。
朝鮮進出政策をとる日本は、宗主権を主張する清国と対立、甲午農民戦争(東学党の乱)を機に両国は朝鮮に出兵、日本軍は豊島沖で清国軍艦を攻撃し開戦に至った。日本軍は平壌・黄海・威海衛などで勝利し、1895(明治28)年4月、下関で講和条約締結。
明治33年事変:
(北清事変)
1899(明治32)年~1900(明治33)年。列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。
山東に始まった義和団の運動が華北一帯に波及、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び、日・英・米・露・独・仏・伊・墺(オーストリア)連合軍の出兵を招き、鎮圧された。北清事変。(義和団事変)。
明治37・8年戦役:
(日露戦争)
1904(明治37)年2月から1905(明治38)年にかけて、満州・朝鮮の支配をめぐって戦われた日本とロシアの戦争。
ロシアの南下政策に対して日本は英・米の支持の下に強硬政策をとり開戦。日本軍は旅順攻略・奉天会戦・日本海海戦で勝利を収めたが、軍事的・財政的に限界に達し、ロシアでは革命運動の激化などで早期戦争終結を望み、両国は米国大統領ルーズベルトの勧告をいれて、1905(明治38)年9月ポーツマスで講和条約を締結した。
2019年になり広島新四国88ヶ所霊場の寺院の入替があり、東区馬木の安楽寺が新しく霊場になったので、お参りし撮影するかと女房に車で連れて行ってもらうことにしたのです。
わが家から馬木に行く途中の“温品村水害碑”とここ‘温品小学校’にも連れて行ってもらうことにしました。
温品小学校校内には正門のインターフォンでお願いし、教頭先生の立会いのもと撮影しましたので、この頁を編集できました。
3基並んだ石碑のうち校門側の石碑に刻まれた文字がわたしは読めなかったのですが、教頭先生に「雨にも負けず 風にも負けず」碑と教えていただきました。
19.09.16.裕・記編集

19.09.13.撮影
広島市東区温品7-8-8 広島市立温品小学校校内正門横

19.09.13.撮影
戦捷紀念碑   と  広島市教育委員会の説明板

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影



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(温品村)戦捷紀念碑
森川家頌徳碑
 


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