(温品小学校に建立)森川家頌徳碑
  東区温品の現在温品(ぬくしな)小学校校内に建立されている「森川家頌徳碑」です。
※ここには、「雨ニモマケズ風ニモマケズ・碑」「(温品村)戰捷紀念碑」「森川家頌徳碑」の3基が建っています。
※下段に、「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ」碑を取り上げています。
温品小学校は、明治18(1885)年現在地に移設し当時は敷地五畝(≒495.9㎡)、規模も三学級のものであった。
明治42(1909)年学校拡張にあたって森川伊三郎氏は耕地八畝四歩を譲渡し
昭和6(1931)年第三次拡張にあたっては当主・(森川)為次郎氏更に一段一畝二十二歩(≒1,164.3㎡)の耕地を譲渡して学校発展に寄与した。
加えて昭和23(1948)年には(森川)為次郎氏は更に一段五畝十一歩を無償寄付して之が拡張を助け
次に昭和30(1955)年講堂建築に際しては為次郎氏実弟呉市在住藤本貫一氏は金三十万円を寄付せられた。
以上の如く森川一家は温品小創立以来学校愛校精神に徹して多額の寄付をせられたるは吾等郷土民の深く感銘するところであって安芸郡安芸町議会は昭和31(1956)年の議会において森川家の頌徳の件を可決せり。
よってここに森川家頌徳碑を建ててこれを顕彰する。
安芸郡温品村略沿革
1889(明治22)年4月1日 町村制の施行時、安芸郡温品村発足
1956(昭和31)年3月31日 安芸郡温品村+安佐郡福木村=安芸郡安芸町発足
1974(昭和49)年11月1日 安芸町は広島市に編入。
2019年になり広島新四国88ヶ所霊場の寺院の入替があり、東区馬木の安楽寺が新しく霊場になったので、お参りし撮影するかと女房に車で連れて行ってもらうことにしたのです。
わが家から馬木に行く途中の“温品村水害碑”とここ‘温品小学校’にも連れて行ってもらうことにしました。
温品小学校校内には正門のインターフォンでお願いし、教頭先生の立会いのもと撮影しましたので、この頁を編集できました。
ここでは、森川家頌徳碑を取り上げました。
また、下段にわたしは刻まれた文字が読めなかった石碑でしたが、教頭先生に「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」碑と教えていただきましたので、加えています。
19.09.16.裕・記編集

19.09.13.撮影
広島市東区温品7-8-8 広島市立温品小学校校内正門横

19.09.13.撮影
森川家頌徳碑

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影

19.09.13.撮影
碑裏面
雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ・碑
  「雨ニモマケズ」は、宮沢賢治(1896-1933)の没後(の1934年)に発見された遺作のメモで、一般には詩とされています。
1936(昭和11)年11月21日花巻市内の賢治別宅跡に本作の詩碑が建立され、碑には「野原ノ松ノ」以下の後半部分が刻まれているそうです。
現場でみるとこの碑に刻まれた文字がわからず教頭先生に教えていただきました。
この頁を編集するので、画像をみると碑銘がわかっているからでしょう「雨ニモ負ケズ」となんとなく読めるようでしたので、画像コントラストを強めに補正したのが最初の画像です。なんとなくわかりますか?
碑裏面には何もなかったので、建立経緯はわかりませんが、子どもたちの勉強を励ますために建立されたのだろうと勝手に思いましたが。

19.09.13.撮影
雨ニモマケズ
風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

19.09.13.撮影
「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ・碑」     と      「(温品村)戰捷紀念碑」



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編



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森川家頌徳碑
 


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