(可部上原)畜魂碑

  広島市安佐北区可部町上原に建立されている「畜魂碑」です。
*碑裏面に”蚕畜”とありますので、養蚕に関しての石碑でした。
*養蚕業の衰退に陥る1973(昭和48)年の第一次オイルショック前に建立された石碑です。
表面: 畜魂碑
裏面: 昭和四十七年六月建之           ※昭和47年=1972年
上原蚕畜協同経営組合
   組合員一同
広島藩(可部地区など)は古からの山繭織の産地でした。(広島郷土資料館の資料参照)
1775(宝暦5)年山繭織が広島藩の特産として記録されています。
1912(大正元)年山繭織の生産量がピークに達したそうです。
1927(昭和2)年広島では昭和に入って産業としての山繭織は終わりました。
日本での養蚕は、Wikipediaによると、
明治時代に至り養蚕は隆盛期を迎え、良質の生糸を大量に輸出した。
(ところが)1929(昭和4)年の世界大恐慌、1939(昭和14)年の第二次世界大戦、そして1941(昭和16)年の太平洋戦争によって、生糸の輸出は途絶した。
〔1940年には絹の代替品としてナイロンが発明され、戦災もあって日本の養蚕業は、ほぼ壊滅。〕
敗戦後、食料増産を優先したため養蚕業の復興は遅れたが、
1950年代に復興することとなります。しかし、戦前のようには輸出できず、1958(昭和33)年には養蚕業危機に直面し、桑園2割減反の行政措置を取られるなど、養蚕業に水を差されることもありました。
高度経済成長によって内需が伸びてくると、
1966(昭和41)年の日本蚕糸事業団法施行と各地での養蚕団地の取り組みなどもあり、内需に応じる形で生産が増加し、東京都下(三多摩)などを中心にようやく1970年代に再度のピークを迎えました。
〔とはいえ、繭生産量、生糸生産量とも、1935年の半分以下に過ぎず、また1962(昭和37)年の生糸輸入自由化 を経て、このころには一大輸入国に転じていた。〕
その後、一元輸入制度導入、蚕糸業振興資金の設置等が行われるも、
1973(昭和48)年の第一次オイルショック以降、価格の暴落・農業人口の減少・化学繊維の普及で衰退が進みました。
1994(平成6)年にはWTO協定で再度自由化され、
1979(昭和54)年には収繭量1トン以上の大規模養蚕農家だけでも15,497戸あったところ、2016(平成28)年には全国の養蚕農家数は349戸にまで減少しているそうです。
  以前交流ウォークなどで可部地区を散策した時、可部地区には山繭織の伝統があったことを知ったのです。その山繭織との関連で養蚕業も盛んであったのかと思いましたが、養蚕業の歴史を調べてみると直接的な関連は無いようでした。
可部東第四公園に“広島土砂災害記念碑”が建立されていることを知り、息子に連れてきてもらったのです。
公園近くで車を留めるところが無いようで、公園上の道路幅が広くなったところに留めたのですが、そこに行く途中の道路沿いに石碑が建っていたので、公園に行く前にその石碑を撮影しようと近づき撮影したのです。
  23.09.27.裕・記編集

23.09.23.撮影
広島市安佐北区可部町上原

23.09.23.撮影

23.09.23.撮影
 
23.09.23.撮影
表面(畜魂碑)   (裏面)

23.09.23.撮影

23.09.23.撮影
グーグルマップに掲載されていました「畜魂碑」



「その他」編
万物関連の慰霊・供養碑など



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