かいどう
街道
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国中に通ずる官道、または主要な陸路。海道とも書く。
街道の始源については、すでに大和朝廷の成立後、大和を中心に山陽道、東海道、南海道が開かれたといわれる。
古代の律令制下では、京を中心として山陽道、東山道、東海道、北陸道、山陰道、南海道、西海道の七道が発し、わが国の交通体系の中核を形づくった。原則として30里(約20キロメートル)ごとに駅を配置、そこに駅馬を常備した。
近世になると、徳川家康が1601(慶長6)年東海道の伝馬制を実施し、以後、中山道、日光、奥州、甲州道中に施行するに及び、江戸を中心とする五街道とその宿駅が成立した。 |
ごかいどう
五街道
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江戸を起点として本州中央部を走る最重要の街道。
江戸時代には一般に、東海道(品川〜大津、延長して守口)、中山道(板橋〜守山)、日光道中(千住〜鉢石)、奥州道中(白沢〜白川)、甲州道中(内藤新宿又は上高井戸〜上諏訪)をさし、それぞれにはいくつかの街道が付属した。
この五街道と付属の街道は、それが藩領内であっても、幕府の道中奉行が直接支配した点に特徴がある。 |
さんよう どう
山陽道
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古代、律令期における国の上部の地域単位である五畿七道の一つ、およびそこに設定された官道の名称。
中国地方の南側にあたり、734(天平6)年に安芸、周防の国境が定められて、播磨、美作(みまさか)、備前『延喜式』では以上近国)、備中、備後(以上中国)、安芸、周防、長門(以上遠国)が確定した。
美作以外の瀬戸内海側を京と大宰府を結ぶ古代の最重要路山陽道が貫通し、原則として駅馬20〜30疋(ぴき)が常備されていた。駅数は『延喜式』では合計54駅であった。 |
西国街道 |
近世には京都と長崎を結び、江戸へ続く主要街道で、山陽道の名でも呼ばれている。
17世紀現在の形にできた西国街道は、当時陸上の大動脈として文化、社会の交流に役立っていた。これが基になって、今の国道2号になっている。 |
ごき しちどう
五畿七道
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律令制の基本行政単位である国の上部に設定された地方行政上の地域区分。
五畿は山城(京都府)、大和(奈良県)、摂津(大阪府・兵庫県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)の五か国。
七道は、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道をさす。
諸国はこの七道に編成され、また大・上・中・下の等級があった。五畿七道の区分は以後日本の地方区分の基本となった。 |
ぶけしょはっと
武家諸法度
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江戸幕府が制定した大名統制の基本法令。
徳川家康は覇権確立以降、幕府を創設し、全国統治権に対する倫理的基礎を公的に確定したうえで、法の制定と制度の整備・運用を通じて大名統制を強化した。
1615(元和1)年大坂落城後、6月には「一国一城令」を発布して、大名の本城を除くすべての支城を破壊させたうえで、1616年7月「武家諸法度」を制定・公布した。この元和法度は、2代将軍秀忠の名をもって発布したもので、全13ヶ条よりなる。その内容は、大名の教養・品行、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、城郭修理の報告、徒党の禁止、婚姻の許可、参勤作法、大名の国政などについて規定した。
その後、寛永法度、寛文法度、天和(てんな)法度、宝永法度と、「武家諸法度」は将軍の代替りごとに必要に応じて改訂された。 |