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広島市安芸区上瀬野に建立されている「(小田事の)万葉歌碑」です。 |
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「真木の葉の しなふ勢能山しぬはずて 我が越え行けば 木の葉知りけむ」 |
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『真木葉乃 之奈布勢能山 之奴波受而 吾超去者 木葉知利家武』
『まきのはの しなふせのやま しぬばずて われこえゆけば このはちりけむ』 |
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萬葉集(巻三291)勢能山歌 小田事(おだのつかふ)作 持統天皇(645-702:第41代女帝690-697)碑裏には687-天平5(755)年と刻まれていますがわたしには意味するところはわかりません。 |
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この万葉歌碑は、1967(昭和46)年2月櫻河内清人など地元有志により建立。
碑材は鉾取山から切り出し石材、(当時の桑原瀬野川町長の尽力による)。
澤潟久孝口譯は『眞木の葉のしなやかに垂れてゐる勢の山を、家郷を思ふ心を忍びかねて、自分が越えて行くとその山の木葉も自分の思ひを知った事であらう』 |
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訳文は『木々の葉がよく茂っている勢能山を、わたしはゆっくり賛美することもできずに越えてゆくが、木の葉はわたしのこの気持ちを分かってくれたであろうか』ということのようです。 |
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和歌山県に背ノ山があり、万葉集の中には紀伊の国を歌った歌も多くこの歌も和歌山の背ノ山を歌ったものとする説があるようです。
広島県人のわたしはひいきの引き倒しにならないようにしなければならないのでしょうが、現在の瀬野で歌ったものではないだろうかと思うのです。
瀬野は古くは世能、勢能、脊之と呼ばれていたこと。また瀬野は世能荒山荘という荘園(奈良時代末以降、貴族や寺社が諸国に私的に領有した土地)であり太政官厨家と円宗寺に米、絹、油を納める地でもあったからなのですが。 |
安芸区まちづくり推進課が作成した「あきく魅力まっぷ」にもこの万葉歌碑の紹介があったのですが、詳細な場所の説明がなく周りの状況がわかる画像ではなかったので、宿題として撮影は残っていました。
2008年10月瀬野公民館主催「瀬野まちあるき〜大山峠を歩く」のとき大山峠から降りてきて間もなく2号線に出くわす所に建立されていました。 |
2011年4月訪ねた時にこの万葉歌碑の横に「歌碑の口譯・碑」が建っているのに気が付き、碑の回りも整備された事がわかりました。新設の碑に近づき碑裏をみると3月に建立されたばかりの碑でしたので、頁を更新しようと撮影していました。
2014年になりましたが、更新しました。 |
2018年7月6日の西日本豪雨ではこの近くの瀬野川に架かる河島橋が流失するなど大きな被害を受けました(ので)この万葉碑は無事だったのだろうかと思っていました。横の国道2号を通ったとき気にして見ていましたが走る車の中からでしたが備時だったようです(ので撮影することは無かったのです)。
2021年12月28日この辺りで山陽本線(上りの)貨物列車が脱線したじこで、12月31日まで安芸中野〜八本松間が前名運休になっていたのです。大晦日31日昼からにやっと運行が散会したことを知り、息子たちと東広島市西条に行った帰りに“上瀬野信号所跡”に立寄ったのでこの万葉歌碑も久しぶりに撮影していました。 |
22.11.23.更新 14.0927.再編集 09.01.21裕・記編集 |