鴒原山( 離障院真倉坊)広寂寺
  南区稲荷町に建てられている「鴒原山離障院真倉坊・廣寂寺」です。
爆心地から≒1,490mで被爆した墓石が残っていますので、この頁下段で取り上げています。
知新集によると
鴒原山廣寂寺、安藝郡廣島稲荷町東組にあり真宗佛護寺末寺で旧名真倉(マクラ)坊という、寛永初(1624)年の図には真藏坊とある。
開基を教傳{永禄7(1564)年10月20日没}といい武田刑部少輔信隆の末子か、幼い時から釈門に入り時宗を学び、天文2(1533)年京で時宗を改め本山第十世證如上人に帰依する。
のち武田氏は毛利元就(1497-1571)に攻め込まれ永禄7(1564)年10月14日武田父子切腹。教傳の二男・教順といい明星院村に一宇を建立当寺二世、第四代住職の願西が、現在の稲荷町に本堂を建立。六世宗傳の時真倉坊を改めて廣寂寺と号しました。

(定礎板)
平成9年11月
浄土宗本願寺派の寺々で、江戸時代、三業惑乱という浄土真宗の大論争があり、大瀛(だいえい:1759-1804)がその時に「横超直道金剛碑(おうちょう じきどう こんごうへい)という本を書きました。その書物がここ広寂寺で印刷され全国に配られたそうです。印刷に使われた版木は大切に保管されているそうです。
(さんごうわくらん)
三業惑乱:
江戸時代、浄土真宗本願寺派に起こった教義理解をめぐる紛争。
学林の学僧を中心に、身口意の三業をあげて帰仏の儀式を行うことが必要であるとする三業帰命の学説が広がったが、それを異端とする主張が生じて対立した。
宗派内では解決できず、1806(文化3)年幕府の裁断で三業帰命は異端説と定められた。
(たりきほんがん)
他力本願:
〔仏〕 阿弥陀仏が衆生を救済する本願の力に頼って成仏すること。
浄土真宗で「他力」とは、「他」とは阿弥陀仏を指し、「力」とは如来の本願力(はたらき)をいう。
(関連語句) 芸轍(芸州轍)
資料によると被爆したものとして灯ろう、、墓石、敷石とあります。
爆心地から≒1,490m  被爆当時町名比治山町
*2008年訪ねた時、墓苑の整理が進められていました。
資料を見て被爆した墓石が残っているだろうと思ってはいましたが、広島駅から南西に600m位のところに位置していますのでいつでも立ち寄れると思っているうちに今(2008)年5月になっていました。
本堂が平成11年に新築され、現在墓苑の整理をされているようでした。墓石の中に被爆の影響と一目でわかる墓石が所々に建立されていましたが、元の位置ではなく整理された位置に据付け変えされたようにわたしには思えました。
2018年広島駅に行くのに駅前大通りの一筋裏の子のお寺の前の道を歩いたのです。2008年当時まだ整備されていなかった山門が建立されていましたので撮影していましたので、この頁を更新しました。
19.11.11.更新  08.06.26裕・記編集

08.05.17.撮影
広島市南区稲荷町2-5

08.05.17.撮影
山号額「鴒原山」 本堂をみました

08.05.17.撮影
本堂及び門徒会館完成記念 平成11(1999)年4月

18.10.03.撮影
山門が整備されたようでした

18.10.03.撮影
寺号碑「浄土真宗本願寺派 鴒原山 廣寂寺」

18.10.03.撮影
被爆した墓石など

08.05.17.撮影
現在は本堂根際が墓地となっています 

08.05.17.撮影

08.05.17.撮影
被爆の影響と思われるたいそう傷ついた墓石 寛政四(1792)年、文化五(1808)年と刻まれた墓石もありました

08.05.17.撮影

08.05.17.撮影
被爆した石仏と思われるものなど 大きなクラック(ひび割れ)が入った大正15(1926)年と刻まれた墓石



「広島の神社仏閣」編



広島ぶらり散歩へ
被爆した建物・構築物」編


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