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中区大手町の元安川緑地帯に建立されている「原爆犠牲ヒロシマの碑」です。 |
原爆ドーム傍の元安川河床には、原爆の熱線で表面 が溶けた瓦がたくさん埋まっていました。
1981(昭和56)年、広島市が元安川の美化工事にとりかかった時、当時の高校生が、瓦の発掘と平和への決意を固める碑の建設を呼びかけ、戦争も原爆も知らない世代が中心となってつくりあげました。
彼らの努力の結晶である「原爆瓦」がこの碑に嵌め込まれています。 |
建立日:1982(昭和57)年8月5日
建立者:原爆犠牲ヒロシマの碑建設委員会※
制作者:芥川永(ひさし)比治山女子短大教授 |
碑形状:幅3m、高さ1.5m、奥行0.7m
「戻れない風」をテーマに昇天する
犠牲者の魂を表現したブロンズ像。
花崗岩の台座の上に原爆瓦を組合せたパネルと碑文。 |
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「天が まっかに 燃えたとき
わたしの からだは とかされた
ヒロシマの叫びを ともに
世界の人よ」 |
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原爆犠牲 ヒロシマの碑
この記念碑は原子爆弾のさくれつによって悲惨は死をとげた犠牲者たちをしのぶブロンズ像と熱線をあびてとかされた「カワラ」とで構成されている。
これらのかわらの表面にあるあわだち・火ぶくれ状の変化はこれらのかわらが想像もつかない高い温度で焼かれたことを示しており『広島・長崎の原爆災害』によると爆心地(爆発点直下の地上点)の温度は摂氏約4000度、爆心地から1000mの地点でも摂氏1800度であったとされている。
この記念碑は爆心地から南141mの地点にあり護岸にそって流れる元安川は「あの時」市民たちのしかばね(屍)でうまった。 |
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1977(昭和52)年以降平和記念公園一帯で体験学習を続けていた広島の高校生たちは元安川河床の泥土の中から数千点にもおよぶ被爆したかわらの破片をほりだした。生徒たちはこれを「原爆がわら」とよび焼けくずれたこれらの瓦片に被爆死をとげた人間の地獄図の中の叫び苦しみを重ねあわせながら被爆体験を聞く学習活動をすすめた。
そして核戦争の悲惨さと核兵器廃絶への課題を学びつつ平和への決意を固めあう記念碑の建立を発起し全国募金運動にたちあがった。
呼びかけにこたえ全国の小・中・高等学校の児童生徒たちや一般市民から寄せられた募金は二千万円をこえ「あの日」凄惨をきわめた爆心地に近い元安川のこの岸辺に「原爆犠牲ヒロシマの碑」は建立された。
“ふたたび戦争の悪業を重ねてはならない 原爆の惨禍をくりかえしてはならない”
爆発点直下にあって一瞬にしてその命を絶たれた人びと 熱線・爆風・放射線による原爆症およびその後障害によって犠牲となった二十数万の人間の痛恨の叫びをここに永遠に記し「ヒロシマの心」として訴えつづけるものである。 |
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2000年撮影してこの頁を編集しました
2003年、2007年撮影して頁を更新しました。 |
2014年野外彫刻作品として撮影してみました。
2017年にも撮影していました。2019年のいまになりましたがこの頁を更新しました。 |
20.03.19.更新 00.11.30裕・編集 |