瀬野川地区原爆死没者追悼碑

  安芸区中野の中野第2公園に建立されている「瀬野川地区原爆死没者追悼碑」です。
※この追悼碑は、被爆50周年事業として、瀬野川地区住民によって1994(平成6)年に建立されたそうです。
碑文               1994(平成6)年7月 瀬野川地区原爆被害者の会
第二次世界大戦が終局を迎えようとする昭和二十(1945)年八月六日に九日長崎に人類史上初の原子爆弾を投下され両市は一瞬にして焦土と化した広島では二十数万人が尊い命を奪われた。黒こげになった屍の山、眼球や内臓のとびだした死体、黒こげの満員電車、倒れた家の下敷きになり生きながら焼かれた人たち、人の世の出来ごととはいえない無残な光景であった。
瀬野川地区でも建物疎開、学徒動員等で172名が死没され、4,446名の方が、学校、寺院などの臨時救護所に収容された。
(瀬野川町誌二十年八月三十一日現)被爆五十周年を迎えるにあたり、死没された方の追悼と「人類とは共存できない核兵器の廃絶」二度と被爆者をつくらないことを後世に伝え、世界平和を祈念してこの碑を建立する。
 ※建立:1994(平成6)年7月(24日)
 ※ 広島原爆戦災誌によると、
瀬野川町(被爆当時、畑賀村・中野村・上瀬野村・下瀬野村)は、爆心地から最短地点で≒7kmで、最長地点で≒19.7kmでした。
畑賀国民学校2階硝子窓はほとんどが吹き飛ばされました。
中野村山王部落湯殿の硝子障子が壊れました。
瀬野村龍善寺本堂広島側の障子4枚が本堂内に吹き飛ばされました。
広島市への建物疎開作業隊へ三村から152名、即死者なし、負傷者128名、帰村後死亡12名があったと記述があります。
被爆者避難収容については、
畑賀国民学校、畑賀病院、中野村専念寺、中野国民学校に8月6日に設けられ490名収容約62名死亡とあります。
資料をみてわが町にも原爆死没者追悼碑が建立されている事を知ったのです。
この中野第2公園は、JR電車から毎日といっていいほど眺めてはいましたが、名称も慰霊碑建立の事も資料をみてわたしは知ったのです。
1994(平成6)年建立の碑としては、原爆の惨禍を伝えようとする碑文ではないのかと思ったのです。.
(わたしは、近年建立のものは碑文を抑えて恒久平和、永遠な平和などという言葉で濁して(原爆で起きた無残な惨禍を避けているような表現を用いて)いるのではと思っていたからなのです。
2003年訪ね撮影してこの頁を編集しました。2006年撮影画像を加え、更新しました。
JR山陽線で帰宅時電車の中からはみていましたが、2015年久しぶりに訪ね撮影しましたので、この頁掲載の画像を見直し、今回撮影画像を加え、再編集しました。
15.10.31.再編集   03.04.10裕編集

03.04.07.撮影
広島市安芸区中野2丁目 中野第2公園(JR安芸中野駅から東へすぐ) 

03.04.07.撮影
原爆死没者 追悼碑

06.12.21.撮影

15.1029.撮影
(黄葉したイチョウが追悼碑を見守っているようでした)

15.1029.撮影

15.1029.撮影

15.1029.撮影
碑文版(銅板)が日焼けしてきているようでした

15.1029.撮影



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
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