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安芸郡坂町小屋浦に1987(昭和62年)年建立された「坂町小屋浦原爆慰霊碑」です。
※2018年7月の西日本豪雨で被災し、2019年8月同地区の小屋浦公園に移設されました。(別頁で編集) |
(この慰霊碑の根際に)広島原爆戦災誌の誤記を指摘して、改訂版では訂正されるという事を記したいしぶみが1989(昭和64)年建立されています。 |
表面: |
原爆慰霊碑 広島市長 荒木武(在任1975-1991)書 |
裏面: |
昭和20(1945)年8月6日広島に原爆が投下され多くの被爆者が運ばれてきて、小屋浦住民の看護の甲斐もなく亡くなられた90余名の方がこの地に埋葬されている。
40年を経た今 犠牲者のご冥福を祈り平和の願いをこめ遺族並びに原爆被害者の会が発願し、金子石材店、田川緑地建設をはじめ多数の有縁者の協力によりこの碑を建立した 昭和62(1987)年3月吉日 |
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被爆直後、坂町小屋浦には陸軍の臨時救護所が設置され負傷者多数が収容されました。負傷者は次々に死亡され、この地に埋葬されましたその数は(広島原爆戦災誌には)150余名と記述しています。
昭和21(1946)年小屋浦地区の人たちは木製の墓標を建てた、その後昭和27(1952)年7月末埋葬されていた遺体は発掘され改めて荼毘に付されたそうです。
被爆40周年を機に石碑の建立の気運が高まり、小屋浦地区の当時判明していた犠牲者の遺族らが原爆慰霊碑建設委員会を結成。それまでに確認された犠牲者85名の氏名が碑の左右側面に刻まれ、碑裏面には碑文(上記)と発起人21名の氏名が刻まれています。
この慰霊碑は、昭和62(1987)年5月完成し、原爆忌の前日(8月5日)に除幕式が営まれたそうです。 |
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(現在の)広島原爆戦災誌には収容所名:小屋浦海水浴場、暁部隊野戦病院:開設8月6日収容数200人、埋葬150人閉鎖8月20日となっています。
また、小屋浦関連では、収容所名:小屋浦国民学校、開設8月6日収容数60人、火葬40人、場所小屋浦火葬場、閉鎖8月20日とあります。 |
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慰霊碑の右側根際に小さないしぶみが建てられています。
広島原爆戦災誌の誤記述(小屋浦の人々は、原爆犠牲者の遺体を野ざらしにしていたという事)に対しての怒りの短歌が刻まれたいしぶみでした。 |
表面 |
昭和四十六(1971)年八月六日発刊の広島原爆戦災誌に記載されている、坂町小屋浦を名指にした、七年間被爆死者、六十体を野ざらし、という写真入りの記事は全くの誤りです。広島市政百年を記念して発刊される、広島原爆戦災誌改訂版には、私達の思いが達してこの誤りは抹消訂正されます。
昭和六十四(1989)年一月吉日 慰霊碑奉賛会 |
裏面 |
「野ざらしの 誤記に憤りて 散りしける 藪椿の実ぞ 永久の語部」 吟悠 |
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※昭和64年は1月1日〜7日までで、1月8日からは平成元年と改元されています。 |
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この坂町小屋浦慰霊碑を資料で知り、以前2度ほど探したのですが、わからなかったのです。
2011年原爆忌も過ぎた8月18日呉方面に行った時、再度探したのです。
呉線JR小屋浦駅から広島方面に少し行くとトンネルがあり、(国道31号線にはトンネルはありません)それを過ぎた処に(以前は雑草に隠れていたからか)この慰霊碑が呉線越しに見えました。原爆忌の慰霊祭が催されたという事からか、雑草が刈られていたからわかったのです。
資料にある昭和20年8月原爆死百五十体埋葬地という木製の碑は(現在は)ありませんでした。 |
11.11.07 裕・記編集 |