旧・広島中央放送局

  中区幟町のフレッド福屋食品館の外壁に取り付けられている(被爆後の)「広島中央放送局のプレート」です。

05.05.11撮影
この写真の建物は、NHKのラジオ放送の開始に合わせて1928(昭和3)年に完成し、地域文化の向上に大きな役割を果たしました。
1945(昭和20)年8月6日午前8時10分すぎ、警戒警報発令の放送にかかった時、原爆が炸裂し、放送局の機械は停止しました。在籍職員260名中34人がその日のうちに死亡しました。
戦後、福屋百貨店が幟町別館として利用しましたが、1997(平成9)年9月、老朽化の為解体されました。
被爆の惨禍を後世に伝えるため、同建物の礎石の一部をここに保存しています。
資料によると、竣工は1928(昭和3)年3月、構造:鉄筋コンクリート造2階建だったそうです
爆心地から≒1,000m 
(被爆当時町名:上流川町)
1928(昭和3)年7月日本放送協会中国支部上流川演奏所(全国6番目のラジオ放送)JOFK850KC 10KWで開局。
1934(昭和9)年広島中央放送局と改称(この頃から戦時色が影を落とし厳しい言論統制が行われたそうです)。
1945(昭和20)年8月6日一端警報解除の放送を終えたが、8時10分過ぎ古田アナウンサーは警戒警報発令のベルを聴きスタジオに駆け込み「午前8時13分、中国軍管区情報、敵大型機3機が西条上空を・・」ここまでで米軍の原爆投下により広島中央放送局の機能は全て停止しました(放送局在職員260人中34人の人たちがその日のうちに亡くなったそうです)。
放送は8月7日午前9時原放送所の予備スタジオから広島県知事の治安に関する告論で再開されたました。
1946(昭和21)年9月この上流川の建物が修復されるまで4坪あまりの予備スタジオで放送が続けられました。
1960(昭和35)年12月大手町の放送会館に移転しました。
跡地は福屋が商品管理部別館として取得、後に解体しフレッド福屋食品館として建てかえられています。
いままで何度となくこの前を通っていましたし以前この辺りの地図をトレースしたこともあったのにここフレッド福屋食品館が被爆当時広島中央放送局だったと交流ウォークの時に教えていただき知ったのでした。
2005年訪ね撮影してこの頁を編集しました。
05.06.17更新   05.06.01裕・記編集

05.06.07.撮影
広島市中区幟町3-30

05.06.07.撮影
  南西から広島中央放送局を望む、建物が黒っぽいのは戦時中に迷彩を施されたため。
1945(昭和20)年11月頃
米軍返還写真
被爆当時上流川町
(現在・広島市中区幟町3-30)
現在はフレッド福屋食品館となっておりこの説明プレートは建物西側の外壁に設置されています。



被爆した構築物等・全体


「原爆被災説明板一覧」編



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(広場モニュメント)坂上直哉作:宇の広場


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