「原爆記」関連位置圖(昭和20年頃の概略圖)

  現在の中区、東区の施設などの位置関係がわかればと作図などした頁です。
おじさんの原爆記を読むまでは兵器部の位置は勿論、兵器部という言葉さえ私は知りませんでした。
原爆記に出てくる地名の位置関係を知るうえで地図がなくてはと思い昭和二十(1945)年頃の資料を参考に作図しました。
牛田町東区(おじさんの自宅)、兵器部(おじさんの勤務地)女學院(兵器部・修理所の集合場所)、常葉(常盤)橋などがわからなくてはと思って編集しました。
06.01.18更新   03.04.16裕・記編集
爆心地からの距離
建物・施設名  爆心地から
工兵橋 ≒2,320m
神田橋 ≒2,030m
常葉橋 ≒1,550m
榮橋 ≒1,510m
京橋 ≒1,380m
稲荷町電車専用橋 ≒1,350m
天満町電車専用橋 ≒1,050m
饒津神社 ≒1,800m
廣島驛(広島駅) ≒1,900m
泉邸縮景園 ≒1220〜1460m
逓信局 ≒1,350m
福 屋 ≒710m
流川教会 ≒900m
広島幟町天主公教会 ≒1,230m
原爆ドーム
(廣島縣産業奨励館
≒160m
レストハウス
(旧燃料会館)
≒170m
中国軍管区司令部
(旧防空作戦室)
≒790m
06.01.18追加
03.04.16裕作図
現代の地図に落としてみました
本川小学校平和資料館地階の展示模型を撮影したものです、おじさんの原爆記に出てくる施設等の位置関係が立体的にわかるのではと・・・ 04.04.28追加
拡大圖
03.06.25裕作図
廣島市街明細地圖 (明治20年
  おじさんの原爆記No11-1に出てくる原爆により行方不明になった嘉孝さんを探したという堺町(現在もその名を残す)・西地方町(今は名がない町)の位置がわからないかと思っていたのです。
明治二十(1887)年の地図ではありましたがトレース(横書きは左はじまりに書換えています)しました。(100年以上前の地図でいまはもう版権なんてものはない?のでそのままスキャンしてもいいのでしょうが・・・)
牛田がこの当時まだ牛田村と言われていた事、本川橋が猫屋橋と呼ばれ現在町名(猫屋町)にその名を残している事など知らない事ばかり・・調馬主管の場所は現在基町河川公園となっていて馬碑がいまも残っていますがその意味するところもわかったり、憲兵本部その東隣が偕行社が位置してたことなど軍都・廣島のはじまりも少しばかり解かってきたりしました。
03.08.28裕・記
03.08.28裕作図
空鞘町 調馬主管 練兵場 憲兵本部
西九軒町 西引御堂町 鷹匠町 猿樂町 研屋町 立 町
細工町 横 町 大手町一丁目 紙屋町 革屋町 播磨屋町
榎 町 十日市町 左官町 相合橋 島屋町 大手町二丁目 塩屋町 西魚屋町
大工町 鍛冶屋町 元安橋 大手町三丁目 袋 町
天満橋 堺町四丁目 堺町三丁目 堺町二丁目 堺町一丁目 猫屋橋 中島本町 大手町四丁目 尾道町
塚本町 天神町 新橋 大手町五丁目 小 町
小網町 西新町 西地方町 新大橋 中島新町 材木町 大手町六丁目
※ 緑文字は現在も町名が残っている町です
 参考資料:廣島市街明細地圖明治20(1887)年
明治二十年九月九日・版権免許
仝 年十一月        ・ 刻成發兌
廣島縣平民 廣島縣平民
製圖者  淺井 馨 出板人  松村 善助
廣島區主水町五百五十一番邸居住 廣島區横町十四番邸居住
広島県の歩み
1871 明治4年7月14日 廃藩置県で広島県と福山県となる
1872 明治5年4月4日 広島県内を17大区と158小区に区画
1876 明治9年4月18日 広島県・深津県の一部(元福山県)が合併し広島県となる
1878 明治11年11月1日 大区小区を廃し
広島区と22の郡を置き、15の郡区役所を設置
1889 明治22年4月1日 市制・町村制施行、広島区に市制施行
資料:広島市編集・発行 図説広島市史 他



原爆記へ 広島ぶらり散歩へ


inserted by FC2 system