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たくえいち
濯纓池 |
縮景園の中央にある池。
この大泉水は、広さは≒8,000u、最深部の深さは≒1.2mです。
池水か汽水(きすい=弱塩水)で正面築山の向こうの京橋川から満潮時にとりいれています。 |
濯纓(たくえい) |
冠のひもを洗う。世俗を超越するたとえ。 |
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関連頁:濯纓池 |
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ながれかわ
流川 |
かって、濯纓池から流れ出た水は、まっすぐ南に流れて流川を通り、広島湾に出ていました。 |
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せきしょうあん
夕照庵 |
この茶室は縮景園の西方に位置しています。
屋根は茅葺(かやぶき)で、建物の面積は≒8uです。
昭和20(1945)年8月6日米軍投下の原子爆弾により焼失しましたが、昭和45(1970)年に復元されたものです。 |
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関連頁:夕照庵 |
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ようきひがたいしどうろう
楊貴妃型石燈籠 |
形が唐の楊貴妃が付けていた冠に似ていることから、この名がつきました。
おなじものには、京都市・大徳寺(だいとくじ)の聚光院(じゅこういん)にある千利休の墓があります。 |
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関連頁:楊貴妃型石燈籠 |
ようきひ
楊貴妃
Yang Guifei
(719-756) |
中国、唐の玄宗の妃。才色すぐれ歌舞をよくし、初め玄宗の皇子の妃となったが、玄宗(685-762:第六代皇帝・在位
712-756)の寵愛をうけて第二夫人の貴妃とされた。楊氏一族もみな高位にのぼった。安禄山の乱を逃れる途上、官兵に縊死(いし:首をくくって死ぬこと)させられた。白居易の「長恨歌(ちようごんか)」をはじめ多くの詩や小説の題材となった。
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ばんざいちょうずばち
萬歳手水鉢 |
下段にある自然石の手水鉢を萬歳手水鉢といいます。
牛田山の清水谷から湧水を巧みに導き、角丸(すみまる)を通して自然の湧水のように作ってありました。 |
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関連頁:萬歳手水鉢 |
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ちょうばばあと
調馬場跡 |
馬の調教訓練に用いた調馬場の跡です。
付近には藩主が調馬状況を見物する「流芳軒(りゅうほうけん)」や、弓や銃の演習場もありました。 |
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関連頁:調馬場跡 |
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いれいひ
慰霊碑 |
一枚の写真を手がかりに、昭和62(1987)年7月31日この地に埋葬されていた原爆死没者の御遺体を発見、六十四体の御遺骨を発掘しました。御遺骨は同年8月6日平和記念公園内の原爆供養塔に納骨されました。 |
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関連頁:(縮景園)原爆慰霊碑 |
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れいせきだん
霊迹檀 |
江戸時代前期(1600年代)に神田川の大洪水の時に縮景園に漂着した三体の仏像を堂を建立して祀っていたものです。
(仮設の)堂内の仏像はその一体で平安時代後期(1100年代)の作と思われる寄木造りの十王像です。この像は一部損傷したのみで奇跡的に残りましたが、他の二体は原爆で焼失しました。 |
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関連頁:霊迹壇 |
※十王(じゅうおう) |
〔仏〕 冥土にいて死者を裁く10人の王。
秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称。死者は初七日から七十七日までの各七日、百箇日、一周忌、三回忌にそれぞれの庁をめぐって来世の形態を定められる。中国、唐代末に道教の影響で成立し、平安中期以降日本にも移入されました。 |
*霊跡←霊迹 |
1.神仏に関する古跡。2.ふしぎなことが起ったところ。
漢和辞典を引くと霊跡(れいせき)と出てき矢印で霊迹とありましたので、漢字からその意味が分かったように(わたしは)思いました。 |
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やくそうえん
薬草園 |
この薬草園は、東京小石川薬草園の協力により昭和40年代(1965〜1974)に復元し、平成8(1996)年4月から広島大学医学部薬学博士・神田博史先生の指導を受けながら植栽整備しました。 |
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関連頁:(縮景園 薬草園 |