じょうきょうじ
浄教寺

  西区草津本町に創建されている「正信山(しょうしんざん)・浄教寺」です。
※浄教寺・本堂・山門・経堂は1945(昭和20)年8月6日爆心地から4,980mで被爆した建物です。
  (広島市の被爆建物リスト平成30年版には南門もありますが、平成14年に新しい南門になっています)
    歴史の散歩道   正信山 浄教寺     草津まちづくりの会
浄教寺は、昔からの伝えによると、鈴が峰(佐伯山)正信谷にあった禅宗・観音寺が天正20(1592)年現在地に移り浄土真宗に改宗したので山号が正信山になったと言われています。
本願寺の古文書には元和9(1623)年藝州佐西郡(ささいのこうり)・草津栄俊に阿弥陀如来本像を下付されたと記載されており当時すでに浄教寺は草津に存在していたと思われます。境内の黒松「臥龍松」は樹齢300年を越え横に延びた太い枝は左右夫々20mもあります。本堂軒下の木組「斗(木共)」(ときょう)波ウサギの彫刻、鐘楼門のある江戸鐘も見所で、経蔵は大正6(1917)年の建立で白漆喰の外壁上部四面に鏝絵で龍・虎・鶴・唐獅子が描かれ、また南門外側の塀には改修前の本堂屋根の棟瓦が埋込まれ昔の威容が偲ばれます。
資料によると、安政年間(1854〜1860)竣工の本堂、原爆の爆風で屋根が破損したそうです。
爆心地より≒4,980m、      被爆当時住所草津本町680
※広島市は爆心地からおおむね5km以内で被爆した建物を「被爆建物」と呼んでいます。
資料に被爆建物として紹介がありますので、訪ねてみようと思っていましたが、2005年交流ウォークの時に(わたしは)はじめて案内していただき訪ね撮影しました。
2010年、2012年訪ねた時に撮影した画像を加えこの頁を更新しました。
18.09.10.更新  05.04.02裕・記編集

05.03.21.撮影
広島市西区草津本町1-22   浄教寺鐘楼門
梵鐘の由緒
寺伝によれば戦国時代に毛利元就が寄贈したと云われるが不明。
作者は山田右衛門、藤原貞能の銘あり、江戸時代中期の享保年間(1716〜1735)の説がが有力です。
平成14(2002)年1月 浄教寺

05.03.21.撮影
〔向側〕鐘楼門(山門)               〔こちら側〕2002年建立の南門-別頁編集-

05.03.21.撮影
本堂

05.03.21.撮影
本堂軒下の木組「斗(木共)」
ときょう
斗(木共)
木造建築で、斗(ます)と肘木(ひじき)を組み合わせて、柱の上に置き、軒桁(のきげた)などを支えるしくみ。主に、寺院建築の深い軒を支えるために用いる。斗組(ますぐみ)。とぐみ。組物。

10.05.01.撮影

12.07.21.撮影
(本堂内部)
 

05.03.21.撮影
経堂

10.05.01.撮影

10.05.01.撮影

10.05.01.撮影
出入口 開口金物細工  鉢巻部:鏝絵

10.05.01.撮影
(境外から経堂をみました)



広島の神社仏閣」編


被爆した建物・構築物」編



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浄教寺
  被爆した鬼瓦
  (境内の)臥龍松
  山中鹿之助・供養塔
  南門(林政治作鶴龍彫刻)


(西区)草津附近」編


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