|
佐伯区楽々園の‘岡の下川’河畔に建立されている「(五日市)壹里標」です。 |
明治時代になって江戸時代の西国街道が廃止され、海岸沿いの道が整備されたとき、ここに御筋橋が架かっていたそうです。
その東詰に広島市の元安橋東詰から三里にあたることから壹里標が建立されようで、海老塩浜村の柴野という人が寄進した石柱です。 |
2007年御筋橋親柱が残されていると云うことで、五日市楽々園の街道松をみたあと、御筋橋親柱を撮影し、頁を編集していました。
その時、この付近に「壹里標」が建立されていたが、折れたりしていまはないと聞いていたのです。 |
2012年に交流ウォーク下見で、広電電車に乗って宮島口に行っていた時、楽々園電停を発車し岡の下川の鉄橋を通ろうとした時、親柱よりも大きなこの石柱をみたのです。
もしかしたら、聞いていた壹里標が復旧されたのかもしれないと思い下見が終わって帰る時、楽々園で途中下車してみに行ったのです。ここで取り上げた「(五日市の)壹里標」でした。 |
近づきみると(2箇所)折れた跡がありましたので、修理されて復旧されたようでした。
ただ下端の方が無くなったているようで、大竹村までの距離が「(廿日市の)壹里標」の半端な数字が見えないようで、建立者の名前も隠れているようでした。しかし、壹里標が復活していることはうれしいことでした。 |
12.10.17.裕・記編集 |