(安芸郡府中町)水分峡からみた原子雲
  その時、私(山田精三さん)は、広島市校外の水分峡(みくまりきょう:広島県安芸郡府中町)の入口を歩いていました。爆心地から12km(注:直線距離では≒6.5km)くらい離れていた地点です。
上空を、機体を光らせたB29が飛んでいました。当時もうB29は見なれた存在で、そう珍しくはなかったのです。ひょいと見たら、飛行機の下に白い落下傘がありました。確か三個あったように覚えています。雲ひとつない澄んだ青い空。朝日にキラキラ機体を光らせ、旋回するB29、ゆらゆら落ちてゆく落下傘。きれいだった。
そんなんとき、急に目の前で写真のフラッシュ、マグネシュームをたかれたような強烈な光がきました。「何だろう」友人と二人そんな話をしていました。そのうちに、松の向うから虹が次から次に出てきました。とても美しかった。
すぐ目の前の直径30cmもある松が大きくゆれていました。しばらくして、いわゆる原子雲がムクムクと頭をもたげてきました。真赤、いや違う、黒味かかった朱色、そんな気もします。とにかく、過去一度も見たことがない、あざやかで、強烈な色でした。
私がシャッターを切ったのは、最初ムクムクと原子雲が頭をもちあげてきた時、その後、最初の雲はかなり高く上がり、そして、次の大きな雲の塊がまた出てきました。わたしはシャッターをつづけて切りましたが、あまりにも大きいため、ファインダーに入りませんでした。
*(上記文は)府中町歴史民俗資料館展示山田精三さん解説文:山田さんは(被爆)当時中國新聞運動部勤務だったそうです
  府中町の水分峡へ友人と散策中、(爆心地から6,500mで原爆の)炸裂約2分後の原子雲を撮影。
最も早い原爆雲といわれ(推定され)、2カット目はカメラのファインダーに収まらなかった。
                            撮影者:山田精三(広島三中生徒・中国新聞)
(上記文は)2011年度第2回企画展「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」の撮影経緯解説文
当時山田さんは17歳。旧制夜間中学に通い、学徒動員で中国新聞社に派遣(で働いていた)、そうです。
六櫻社(後の小西六;発売:1934年〜1950年)「ベビーパール」で撮影
2006年(わたしは)はじめてここ府中町歴史民俗資料館を訪ね、見学しました。
その時、ここ府中町水分峡からみた原子雲を撮影した画像をみたのです。その時は、館員の方に撮影していいか、について質問することは頭になかったのです。
時は過ぎ、交流ウォーク下見で見学した2011年10月この府中町から見えた原子雲の画像のことがわたしの頭から離れていませんでしたので、(町職員の管理ということではなく)ボランティア組織が管理されているようで、そのボランティアガイドの方に撮影し、わたしのHPで紹介したいとお願いし、許可を頂き撮影しました。
2006年みた時、撮影した方の事など碌に説明板も読んでいなかったので、今回、山田精三さんが撮影された事などを知りました。
2012年2月広島平和記念資料館に立寄った時、2011年度第2回企画展(2012年2月3日〜7月9日)「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」が催されていました。
その中で、ここに取り上げた写真が、「8月6日のきのこ雲」ということで展示されていました。硝子がありませんので余計な光が写っていない画像になると思い(フラッシュを焚かずに)撮影しましたので、この頁に加えて編集しました。
2013年4月通称原爆資料館を見学していた時に、広島の各所から撮影された原爆雲の写真が展示してありました。その中にこの山田精三さんが撮影された写真の展示がありましたが、いままで見た画像とは違っているように感じましたので撮影しました。帰宅後この頁の画像と比べてみました。現像する範囲(松の木々が下まで写っているなど)が少しばかり違っていたからそう感じたのだと思いましたので、この頁に加えました。
13.04.16更新   12.02.14裕・記編集

11.10.01.撮影
安芸郡府中町本町2-14-1  府中町歴史民俗資料館

府中町歴史民俗資料館展示の写真を11.10.01.撮影
     米軍側の記録によれば、雲は3分間のうちに9,000mまで上り、
     やがて上部はキノコの形となって広がり、12,000mまで達したそうです。

11.10.01.撮影

平和記念資料館・東館展示の写真を12.02.09.撮影
平和記念資料館・東館にて
2011年度第2回企画展「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」
原爆投下から2〜3分後
安芸郡府中町水分峡頂上から
爆心地から6,500m
撮影:山田精三  所蔵:中国新聞社

平和記念資料館・本館展示の写真を13.04.08.撮影
通称・原爆資料館を見学した時にみましたので撮影しました

11.10.01.撮影
(広島縣安藝郡府中町立府中小学校) 原爆被害
昭和二十年八月六日八時十五分広島市に原子爆彈投下さる 昭和20年=1945年
1. 天井 廊下 講堂 一般教室 三分の一  廊下約二分の一
2. 屋根 講堂全部改修 その他も大修理
3. 壁   三分の一は廊下又は亀裂小
4. 窓   窓の三分の一は大破使用不能  硝子破損三分の二
5. 校舎 本棟東側上下十教室建付くるい窓の開閉大部分不能となる
6. 校具 原爆投下直後より全教室を患者収容所にあてた為校具の大部分破損又は紛失す
昭和二十一年、二十二年米進駐軍司令により 御真影奉安殿及地図、図書類の大部分取壊わし又は焼却す 昭和21年=1946年

11.10.01.撮影
 原爆の熱でやかれた竹
(竹の)皮が熱でやかれ、はげおちて、色がかわってしまった様子がよくわかります。



被爆した建物・構築物」編



広島ぶらり散歩へ
府中町歴史民俗資料館
  水分峡からみた原子雲
  丸型ポスト
  麒麟麦酒関連、腕用消火ポンプ


「(安芸郡)府中町」編


inserted by FC2 system