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安芸郡府中町本町の府中町歴史民俗資料館に展示されている「水分峡からみた原子雲」などです。
※1945(昭和20)年8月6日(月)午前8時15分米軍が原子爆弾を投下したことで出来た(原子)雲です。 |
その時、私(山田精三さん)は、広島市校外の水分峡(みくまりきょう:広島県安芸郡府中町)の入口を歩いていました。爆心地から12km(注:直線距離では≒6.5km)くらい離れていた地点です。
上空を、機体を光らせたB29が飛んでいました。当時もうB29は見なれた存在で、そう珍しくはなかったのです。ひょいと見たら、飛行機の下に白い落下傘がありました。確か三個あったように覚えています。雲ひとつない澄んだ青い空。朝日にキラキラ機体を光らせ、旋回するB29、ゆらゆら落ちてゆく落下傘。きれいだった。
そんなんとき、急に目の前で写真のフラッシュ、マグネシュームをたかれたような強烈な光がきました。「何だろう」友人と二人そんな話をしていました。そのうちに、松の向うから虹が次から次に出てきました。とても美しかった。
すぐ目の前の直径30cmもある松が大きくゆれていました。しばらくして、いわゆる原子雲がムクムクと頭をもたげてきました。真赤、いや違う、黒味かかった朱色、そんな気もします。
とにかく、過去一度も見たことがない、あざやかで、強烈な色でした。
私がシャッターを切ったのは、最初ムクムクと原子雲が頭をもちあげてきた時、その後、最初の雲はかなり高く上がり、そして、次の大きな雲の塊がまた出てきました。わたしはシャッターをつづけて切りましたが、あまりにも大きいため、ファインダーに入りませんでした。 |
*〔上記文は〕府中町歴史民俗資料館展示山田精三さん解説文:山田さんは(被爆)当時中國新聞運動部勤務だったそうです |
府中町の水分峡へ友人と散策中、(爆心地から6,500mで原爆の)炸裂約2分後の原子雲を撮影。
最も早い原爆雲といわれ(推定され)、2カット目はカメラのファインダーに収まらなかった。
撮影者:山田精三(広島三中生徒・中国新聞) |
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(上記文は)2011年度第2回企画展「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」の撮影経緯解説文 |
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当時山田さんは17歳。旧制夜間中学に通い、学徒動員で中国新聞社に派遣(で働いていた)、そうです。
六櫻社(後の小西六;発売:1934年〜1950年)「ベビーパール」で撮影 |
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2006年(わたしは)はじめてここ府中町歴史民俗資料館を訪ね、見学しました。
その時、ここ府中町水分峡からみた原子雲を撮影した画像をみたのです。その時は、館員の方に撮影していいか、について質問することは頭になかったのです。 |
時は過ぎ、交流ウォーク下見で見学した2011年10月この府中町から見えた原子雲の画像のことがわたしの頭から離れていませんでしたので、(町職員の管理ということではなく)ボランティア組織が管理されているようで、そのボランティアガイドの方に撮影し、わたしのHPで紹介したいとお願いし、許可を頂き撮影しました。
2006年みた時、撮影した方の事など碌に説明板も読んでいなかったので、今回、山田精三さんが撮影された事などを知りました。 |
2012年2月広島平和記念資料館に立寄った時、2011年度第2回企画展(2012年2月3日〜7月9日)「広島、1945-写真が伝える原爆被害-」が催されていました。
その中で、ここに取り上げた写真が、「8月6日のきのこ雲」ということで展示されていました。
硝子がありませんので余計な光が写っていない画像になると思い(フラッシュを焚かずに)撮影しましたので、この頁に加えて編集しました。 |
2013年4月通称原爆資料館を見学していた時に、広島の各所から撮影された原爆雲の写真が展示してありました。その中にこの山田精三さんが撮影された写真の展示がありましたが、いままで見た画像とは違っているように感じましたので撮影しました。帰宅後この頁の画像と比べてみました。現像する範囲(松の木々が下まで写っているなど)が少しばかり違っていたからそう感じたのだと思いましたので、この頁に加えました。 |
13.04.16更新 12.02.14裕・記編集 |