安の目薬・碑
  安佐南区上安(の安川沿い)に建立されている「安の目薬」記念碑です。
「安の目薬」は、この地域(安地区*3)で作られていた目薬の総称です。野村家、原田家、品川家で作られ全国的にも知られていたそうです。
この目薬は、(点眼薬ではなく)塗り薬で下瞼に粟粒程度塗り体温で自然に溶けて目に入るという薬でした。薬は白色でクリーム状をしており、貝殻の容器に入れられ赤い紙に包んで売られていました。
石柱が建っている場所は原田家の跡地です。
表面: 登録商標 元祖 安の目藥
(目が描かれ)くすり
廣嶋縣安佐郡安村上安   原田臺造謹製
裏面: この土地はかって安の目薬を製造していた原田家の跡地です。いまから二百年余り前より目薬の製造がおこなわれていました。安の目薬はその顕著な効能によって多くの人々に愛用され国内は云うに及ばず、中國・アメリカあたりまで販路を拡げていました。
第二次世界大戦の末期政府の薬業統合の指導により製造をとり止めるに至りました*2)。
1992(平成4)年学校法人安田学園にこの土地を譲渡するに当たり郷土の産業の先駈けの一つとして当家安の目薬の由緒を後世に残すために石碑を設置しました。安の目薬の関連資料はエーザイ(株)内藤記念くすり博物館(岐阜県羽島郡川島村)に寄贈しました。
1999(平成11)年 二代目臺造 長孫原田威夫 識
 * 上安2丁目の鶏頭原薬師堂の由来碑に野村家についての記述があります。
『・・・・先祖野村傳三郎ト云ヒシ人薬師如来ノ夢ニテ目薬ノ妙方ヲ得タリ燭竜膏ト名ツタル目薬ハ即チ此方ナリ其ノ効験著シキコト早ク御室御所ヘモ聞へ菊ノ御紋ヲ免ザレタルヲ包紙ニ押テ真製ノ証トス世ニ安ノ目薬ト称誉サル。
尚此ノ薬師堂ハ六代野村正悦(約二百六十年前元禄年間)再建セシモノナリ、堂前方ノ井戸ハ神託ニヨリ目薬ニ使用セシモノナリ』とありここで取り上げた「安の目薬」石碑の碑文を読む前に野村家の目薬のことを知ったのです。
*2) Wikipediaによると
『1943(昭和18)年「薬事衛生ノ適正ヲ期シ国民体力ノ向上ヲ図ル」ことを目的として薬事法(昭和18年3月12日法律第48号)が制定されました。
従来の医薬品に関する諸法令が同法にまとめられたほか、医薬品の製造業に許可制を導入するなど、不良医薬品の取り締まりおよび一層の品質適正化が図られました。
このことによって統制以前には40万種あったとされる日本の薬品が6,000種程度に統合されて、江戸時代以前からの処方なども含めて多数が廃絶し、残されたものも成分の変更などによって全く異質の薬品への変更を余儀なくされたものも存在したと云われています。』とあります。
*3) 1889(明治22)年4月1日町村制施行時に発足した「沼田郡安村」は、
     大町村+中須村+相田村+上安村+高取村+長楽寺村がまとまりできました。
1898(明治31)年10月1日沼田郡+高宮郡=安佐郡
1955(昭和30)年7月1日古市町+安村=安古市町
1973(昭和48)年3月20日安古市町は広島市に編入されました。
2015年(被爆70年)原爆死没者も合祀している安村忠魂碑を訪ねましたので、この辺りをぶらり散歩したのは(わたしは)はじめてでしたので、区政振興課制作の「あさみなみ散策マップ」を片手に歩きました。
この「安の目薬」石柱がマップに紹介があり、解説(上記)もありましたので、参考にしてこの頁を編集しました。
なお、石碑碑文にある、安田学園に譲渡したとあり、マップ(2006年改訂時)、には“安田学園実験農場”とありますが、訪ねた2015年は民間住宅地になっているようでしたので、安田学園が民間住宅企業に転売したのだろうと(わたしは)思いました。
16.11.08.裕・記編集

15.11.04.撮影
広島市安佐南区上安1-4  

15.11.04.撮影

15.11.04.撮影

15.11.04.撮影

15.11.04.撮影

15.11.04.撮影


「その他」編
地域関連記念碑など



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安の目薬・石碑
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