しんかんぎ (ほしのもっこつ)
身幹儀 (星野木骨)
 南区霞の広島大学医学部医学資料館に展示されている「星野木骨(レプリカ)」です。
※星野木骨とも云われ、実物は国の重要文化財に指定されています。
江戸時代後期の広島の医師・星野良悦(ほしのりょうえつ1754-1802)が刑死体の解剖を藩に申請し、1791(寛政3)年4月に2体の刑死体の下げ渡しを受け、1体は内臓を中心にした解剖を仲間の医師たちとともに行い、もう1体を蒸した後に軟部組織を除去して真骨を得て、工人(細工職人)原田孝次に木製人骨を作らせました。
制作には約300日を要し、翌(1792)年完成しました。これはわが国で最初の木骨(舌骨、耳小骨を除く全骨が揃っている)であり、医師の教育研究に用いられました。
1798(寛政10)年江戸で杉田玄白(蘭学医1733-1817)、大槻玄沢(おおつきげんたく・蘭学者1757-1827)らが精巧さを絶賛して「身幹儀」と命名しました。
1800(寛政12)年2体目の木骨を作成し幕府の医学館に献上し、30両を下賜されました(この木骨の所在は現在わからなくなっています)。
「身幹儀」は明治時代に(旧浅野藩・藩医家柄の)後藤静雄の所蔵となりました。第二次世界大戦中は、三滝の(後藤家薬草園であった)日渉園に疎開させていたため原爆の被災を免れました。
1970(昭和45)年広島市重要有形文化財に指定され、2000(平成12)年に広島大学医学部医学資料館に寄贈され、2004(平成16)年6月8日国の重要文化財に指定されました。
*資料は医学資料館館長・片岡勝子さん著「身幹儀について」他を参考にしました。
展示物をみていると「江戸時代の木骨」があり『1792(寛政4)年星野良悦(広島大学医学資料館所蔵)、の他に1799、1800(寛政11、12)年星野良悦(所在不明)。1810(文化7)年各務文献(東京大学博物館所蔵)1822(文政5)年頃奥田万里(国立科学博物館、名古屋市博物館所蔵)。その他星野木骨や各務木骨に習って10体以上の木骨が作成されたようです。』と解説していました。
また、1799(寛政11)年1月1日、大槻玄沢(1757-1827)の蘭学堂で開催された新元会(オランダ正月)の余興で造られた蘭学者番付けの展示物がありました。星野良悦は、堂々東張り出しに位置し「當角力の骨 藝州、古今の大當リ大力士」とあります。
星野良悦(ほしのりょうえつ:1754-1802)
広島堺町の町医者。範寧。
郊外に薬草採取に出かけ草叢に髑髏(どくろ)を見つけ下顎脱臼の整復術を考案した。
1791(寛政3)年4月に2体の刑死体の下げ渡しを受け、1体を蒸した後に軟部組織を除去して真骨を得て、細工職人・原田孝次に木製人骨を作らせ、翌(1792)年完成した。これはわが国で最初の木骨(舌骨、耳小骨を除く全骨が揃っている)であった。
1798(寛政10)年木骨を江戸に持参し、杉田玄白(蘭学医1733-1817)、大槻玄沢(蘭学者1757-1827)らが絶賛して「身幹儀」と命名した。このとき大槻は「解体新書」の不備を修正した「重訂解体新書」の出版準備中で内容を星野に確認した。
1800(寛政12)年2体目の木骨を作成し幕府の医学館に献上し、30両を下賜された。
2006年交流ウォーク下見で(わたしは)はじめてここ広島大学医学部医学資料館に展示されている星野木骨のレプリカ(複製品)ですがみましたので、撮影し頁に編集しました。
2010年にも見学しましたので、硝子ケースの中ですので後ろからは撮影できませんが、斜め方向から撮影してみました。また展示の説明文などもそれなりに興味を持ってみてみましたので頁を更新しました。
11.08.05.更新    06.11.19.裕・記編集
関連頁 (戦時中、身幹儀を疎開させていた)日渉園

06.09.20.撮影
広島市南区霞1-2-3  (広島大学医学部医学資料館展示の)星野木骨(レプリカ)複製品

10.06.03.撮影

06.09.20.撮影
星野木骨は全身を組み立てて用いたとは考え難いそうですが、レプリカを組み立てたものが常設展示してあります。

10.06.03.撮影
星野木骨の医学的解説 江戸時代の木骨 (芝蘭堂新元会作成)
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