|
中区袋町の袋町小学校平和資料館前に設置されている「袋町国民学校・原爆被災説明板」です。
※原爆被災説明板が新しい板に取り替えられ碑文も改訂されていましたので、両方を取り上げています。 |
(新)袋町国民学校・原爆被災説明板 爆心地から約460m |
1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、原子爆弾により木造校舎は全壊全焼し、鉄筋コンクリート3階建の西校舎は 外形のみを残して焼失しました。ここでは、学童疎開をしないで登校していた残っていた児童と教職員160人がが朝礼直後に被爆し、ほとんどが犠牲になりました。被爆後、西校舎は救護所となり、階段室の壁面には被爆者の消息を知らせる多くの伝言が残されました。 |
窓にむしろをさげて救護所に使われている校舎 1945(昭和20)年10月菊池俊吉氏撮影 |
|
|
|
(旧)袋町国民学校・原爆被災説明板 爆心地から約500m |
鉄筋コンクリート3階建の校舎は 原子爆弾により外形だけを残して焼失しました。
学童疎開をしないで残っていた児童が朝礼直後に被爆しました。この学校の犠牲者は、およそ300人にのぼりました。 |
窓にむしろをさげて救護所に使われている校舎 1945(昭和20)年10月8日菊池俊吉氏撮影 |
|
|
*(上記を)幟町国民学校と記述間違いをしていてご指摘いただきましたので、訂正しました。2015.07.13.訂正 |
|
鉄筋校舎であったにもかかわらず窓枠は吹き飛ばされたり湾曲したりして硝子は粉々になっています。
8寺15分、朝会を終えたばかりの教職員・児童たち約160人が直撃を受け生き残ったのは数名だったそうです。
(高学年の児童は、双三郡の各地に集団疎開していました) |
原爆被災説明板は避難所、救護所になっているときのものですが、その後1階は県医療団の事務所、2階は薬品統制組合と県衛生課、3階の一部が倉庫として使用されたそうです。1946(昭和23)年5月から西校舎3階(児童数37名)で硝子も無く、床はむしろ敷き、木箱の机で授業再開されたそうです。 |
沿 |
|
1911 |
明治44年 |
袋町尋常小学校となる、1922年に袋町尋常高等小学校と改称 |
革 |
|
1937 |
昭和12年1月 |
鉄筋コンクリート造3階建、地下1階、21の教室をもつ校舎竣工 |
の |
|
1945 |
昭和20年2月 |
南北の木造校舎を建物疎開で解体される。 |
概 |
|
1999 |
平成11年 |
新校舎完成(旧西校舎…平成11年12月まで使用) |
要 |
|
2002 |
平成14年 |
被爆校舎(旧西校舎)の一部を平和資料館とし、開館 |
|
* |
2012年見学した平和記念資料館展示パネル(写真は下段掲載)に被害の記述がありました。
上記の資料と被害状況が違っていますので参考に下記で取り上げましたが、被害状況を記録する方々も被爆者で混乱していたことは想像に難くないところですので。 |
|
『1945(昭和20)年8月6日原子爆弾は轟音とともに北校舎の2教室を吹き倒して燃え上がらせ、校庭で作業中の職員4、5名と70名の児童を地面に強くたたきつけたと思われます。
不思議なことに西校舎内部は、小林校長先生らが校庭に出るまでの数分間(と思われる)は、まだ発火していませんでした。おそらく鉄筋コンクリート造であったため、また広島富国館の陰になったからでしょう。しかし、窓枠は吹き飛びあるいはひん曲がり、ガラスはめちゃくちゃでした。』と解説がありました。 |
|
原爆被災説明板は、現在袋町小学校平和資料館になっている被爆した袋町国民学校の保存されている建物の玄関前に設置されています。 |
2011年、広島平和記念資料館平成23年度企画展「こどもたちの見た戦争」でみていて展示パネルにここで取り上げた袋町小学校(被爆当時・袋町国民学校)の被爆被災したパネルがありました。また、2012年にも見学中に気が付いた画像パネルを撮影していました。2014年のいまになりましたが、その画像を加え頁を更新しました。 |
この前を通ることはあっても気にもせず通り過ぎていただけのわたしですので原爆被災説明板が新しくなったのがいつかは分かりません。
2018年近くの被爆建物旧帝国銀行広島支店(現アンデルセン)が解体されているので撮影しようとして、ここ袋町小学校平和資料館前を通た時に足を止めて碑文を読めば、原爆が米軍によって投下された月日がわからない人が増えていると聞きますので、碑文が“1945(昭和20)年8月6日からはじまっていました”ので以前とは違っているなと思ったので撮影しました(ので)この頁を更新しました。 |
21.11.29.更新 04.04.10裕・記編集 |