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中区本川町の本川小学校内に被爆校舎の一部を利用して開館している「本川小学校平和資料館」です。 |
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本川小学校平和資料館 1988(昭和63)年5月
1945(昭和20)年8月6日(月)午前8時15分原子爆弾は本川小学校の南東≒350m、上空≒530mで爆発しました。強烈な熱風と放射線をあびた校舎は外部を残して全焼、壊滅し、校長先生ほか10名の教職員と約400名の子どもたちの尊い生命が一瞬のうちに奪われました。
この平和資料館は1928(昭和3)年に広島市で小学校としてはじめて建てられた鉄筋コンクリート造3階建ての一部です。 |
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原爆の被害を受けた状態をそのまま残し、被爆の「証(あかし)」として保存することにしました。
展示室には被爆の様子をうつした写真と被爆した建物などを展示しています。また、地下室はここで亡くなられた多くの方々のご冥福を祈る「祈りの場」として残しています。
多くの人々の悲しみと願いが秘められたこの本川小学校平和資料館から、平和の大切さと人命の尊さを学んでいただきたいと思います。 |
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資料をみていて本川小学校に(被爆)校舎の一部が残され平和資料館として開館(無料です)していることは知っていましたが、訪れたのは今(2004年4月)回がはじめてでした。
声高に『平和平和』などと叫ぶ事などない、躯体むき出しのこの資料館地下室でわたしはしばし佇み(被爆後)58年の歳月の流を考えてみました。 |
(校舎は)410m※という至近距離で被爆した本川国民学校は、爆風と3000℃〜4000℃といわれる高熱に見舞われ約400人の児童、10人の教職員、そして校舎内で勤務していた広島県土木部職員などの多数が犠牲になりました。奇跡的に助かったのはわずか2人だったそうです。 |
校舎は爆心地から≒410m (被爆当時町名:鍛冶屋町) |
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※原爆被災説明板では一番近い距離を採用しているのでしょう350mとなっています |
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1873 |
明治6年1月 |
本川尋常高等小学校創立 |
1928 |
昭和3年7月 |
(RC造3階建、一部地下1階)
広島市内公立小学校としてはじめての鉄筋コンクリート造校舎として竣工 |
1945 |
昭和20年8月6日 |
約400名の児童、10数名の教職員※、校舎内に勤務していた県庁土木部職員等多数の方々が犠牲になったそうで奇跡的に助かった方は2名だけだったそうです。 |
1951 |
昭和26年 |
南北(正面)校舎撤去され新増築された |
1987 |
昭和62年 |
一部を残し解体された |
1988 |
昭和63年5月 |
残された(地下室がある位置を1階とともに≒400u)を平和資料館として整備保存された。 |
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※資料によって亡くなった方の数に違いがありますが多くの方々が亡くなり混乱の中でしたでしょうから |
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校舎 |
爆心地から≒410m |
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講堂 |
爆心地から≒420m |
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竣工時期:1928(昭和3)年7月 |
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竣工時期:1933(昭和8)年5月 |
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解体時期:1987(昭和62)年(一部保存) |
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壊滅時期:1945(昭和20)年8月6日 |
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構造など:鉄筋コンクリート造、3階建・一部地下1階 |
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構造など:鉄骨造、平屋 |
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設計者:増田清 |
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設計者:不詳 |
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本川小学校事務室で訪問者名簿に記帳し、写真を撮ってもいいのか伺い最小限の撮影をし、今(2004年)回HPに掲載しました。
平和記念公園から相生橋(本川)を渡って一筋西南すぐに位置しています。平和記念公園から少しばかり足を伸ばし訪ね、平和の中で生きているいまを考えられてみてはと(わたしの)お勧めの資料館です。 |
被爆70年の2015年資料館入口根際に建立の本川地区原爆慰霊碑を訪ね頭を垂れました。その時久しぶりに撮影しましたので、2017年になりましたが掲載画像も見直し、この頁を再編集しました。 |
17.01.31.再編集 04.04.28裕・記編集 |