かき船(牡蠣船)

  中区の元安川で営業している「牡蠣船」を取り上げました。
※元々あった平和大橋下流側の「かき船かなわ」が2016年、「かき舟ひろしま」が2017年3月中旬に撤去されました。
*牡蠣船の歴史についても調べてみました。
「広島の元安川川岸に船をつなぎ、カキ料理を食べさせてくれる屋形船」です。
広島のカキ食文化の一つで広島の風景に溶け込んだようなかき船の(簡単ではありますが)その歴史も取り上げました。
かきぶね(牡蠣船・牡蛎船)を辞書で引くと
1) 牡蠣をとる船。また、牡蠣を売る船。
2) 江戸時代、冬に広島方面から大坂へ乗り入れて、川筋のあちこちの橋の下に停泊し牡蠣料理を食べさせたのに始まる屋形船。現在も大阪や広島に見られる。 [季語] 冬。
  高浜虚子(愛媛県出身:1874-1959) も詠んだというかき船、『牡蠣船の薄暗くなり船過ぐる 』 
        
かき船は、
1660年代に(広島の)草津から大坂まで、小西屋五郎八(?-1678)ら5人のカキ売りの船が起源とされています。
当時は、秋の終わりごろ草津・仁保・矢野などから出港し、内海沿岸の諸港で生がきを販売し、翌年の1月~2月頃(旧暦)に帰港していました。
元禄年間(1688-1703)に草津の養蠣(ようれい)業者が株仲間をくんで大坂に市場を開きました。
1707(宝永4)年大坂での大火の際に、高麗橋下の幕府の高札を守ったことで、草津の業者は大坂町奉行より事業の特権が与えられ、株仲間制度の下、草津・仁保出身者が事業を独占することになりました。
船内でのかき料理の提供は江戸末期の1810年代からで、冬季だけの出稼ぎ的傾向が続いていました。
明治以降、東京など関東以西の各地にもカキ船が登場するようになりましたが、営業形態は、カキだけを広島から取り寄せ業者はその土地に定住するものでした。
(カキの輸送手段は、大正時代は汽船を、昭和時代にはむぎ身を汽車で運ぶように変化しました。また、明治以降はカキフライなども出されるようになり、付け合わせとして広島菜漬も出されました。)
草津の業者に加え、矢野や海田の業者もカキ船に参入。
全国で、1882(明治15)年時点で77隻、昭和初期で150隻以上のカキ船の数を数えたそうで、広島カキの名を広めました。
標準的なカキ船で、板前・仲居・出前持ちなど10人前後の従業員で営業していたとされていたそうです。
広島市内でも、第二次世界大戦前から元安川や、本川で営業していましたが、第二次世界大戦後、陸上に店を構える店舗に転換するなどして数を急激に減らしています。
2014年元安川に2隻(かなわ・ひろしま)でしたが、2016年現在かなわだけとなっています。
(こうさつ)
高札:
法令などを公示する掲示板。制札(せいさつ)ともいう。
中世に犯罪事実の公示に用いることが多く、懸賞などをかけて通報・逮捕などの協力を求めた。
(こうらいばし)
高麗橋:
大坂三郷市街の中心部に位置し、高麗橋通りは大呉服商、両替屋、本屋、紙屋などが軒を並べ交通量も多い繁華街であったため、公儀橋のなかでもとくに重要視された。
大坂から他所・他国への里程や、伝馬・駄馬などこの橋を起点とした。
また西詰には高札場が設けられたが、制札の種類も三郷市中の高札場中で最も多く、親子札・毒薬札・切支丹札・火事札・駄賃札・火付札・抜荷制札・荷物之次第札の8種が掲げられていた。
*カキ船については、広島県大百科事典、wikipediaを参照しました。
仁保島村*大河で生まれた亡きおやじは、カキ船が好きで家にいないと思ったらカキ船に行っていたと亡きお袋がよく云っていたと兄たちに聞いてたのです。そのようなことからカキ船で牡蠣を食べようと云われていたのです。
  *1889(明治22)年町村制発足時仁保島村。1917(大正6)年仁保村と改称。1929(昭和4)年広島市に編入。
2005年交流ウォークで草津の町をみて回った時に、江戸時代中期「牡蠣の養殖法」が開発され牡蠣養殖も盛んになり、大坂に向けた「カキ船」が評判を得て風物詩ともなり、広島の牡蠣を有名にしたことを知りました。
また、各地の検定ブームにのって2006年発行された(認定試験公式テキスト)「ひろしま通になろう」にも“カキ船営業”の項目をもうけていました。
いずれ「かき船」の頁を編集しなくてはならないと思っていましたが、なかなか編集までに至らなかったのです。
2013年になって新聞報道で、国土交通省が2014年度以降の河川使用許可を認めない方針だと知ったので、2艘のカキ船がなくなってしまうかもしれないので、撮影して頁を編集しなくてはと思ったのです。
河川使用許可が認められないと報道される前に撮影した画像もあるはずなのに見つけ切らず、報道後に撮影した画像を主にしてこの頁を編集しました。
2016年に「かき船かなわ」が撤去され、2017年3月中旬に「かき舟ひろしま」が撤去されました。
「かなわ」は2015年10月同じ元安川上流側に新規開店していますが、「ひろしま」は本川に移転はしていませんのでこのまま閉店になるのかなと思っています。
もともとあった平和大橋下流側の「かなわ」「ひろしま」両かき船が撤去されましたので、撮影しこの頁を更新しました。
17.06.13.更新    16.02.02.裕・記編集

13.11.28.撮影
広島市中区 元安川平和大橋下流側 

13.11.28.撮影
 大手町3丁目地先:かき船・かなわ      中島町地先:かき舟・ひろしま

16.02.04.撮影

16.06.16.撮影
(新しい船が開業していましたがやっと)撤去された旧「かき船かなわ」とまだ残っている「かき舟 ひろしま」

17.03.30.撮影
 「かき舟 ひろしま」が撤去され、かき舟がなくなったた(平和大橋下流側の)元安川
 
 かき船 かなわ

13.11.28.撮影
 平和大橋からみました

10.03.15.撮影

15.02.26.撮影

16.02.04.撮影

15.02.26.撮影

15.02.26.撮影
緑地帯の方から入っていきます
 かき舟 ひろしま
2017年3月中旬(2016年度中)までに撤去すると中國新聞で知りましたので、追記しました。
『1967(昭和42)年に営業をはじめた。長さ22.5m、幅7.2m。高さ7.8m』であったこと、撤去中の工事写真が掲載されていました。

09.08.18.撮影
平和大橋からみました

13.11.19.撮影

15.02.26.撮影

15.02.26.撮影

15.02.08.撮影

16.02.04.撮影
営業はしていませんが、郵便屋さんが郵便を届けていました

17.03.30.撮影
(かき舟撤去ですっきりした元安川右岸(ですが長い事みてきたかき舟がないことがチト寂しく感じます)



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