高木老儒之碑

  東区二葉の里の広島東照宮参道根際に建立されている「高木老儒之碑」です。
※文孝高木先生碑で始まるこの碑。
※篆額:大勲位載仁親王(1865-1945)。撰(文):従六位勲五等西尾為忠。
※明治二十七(1894)年十月建(之)。
この石碑は、幕末から明治10年代にかけて、広島で庶民に学問を教える塾を開いていた漢学者・高木忠次郎の学識とその人となりをを記したものです。
高木は姓、老儒とは「経験豊かな学者」のことを云い、名は忠次郎、号は松居、竹屋町で代々農業を営んでいましたが、父は広島藩に仕え清廉な人柄として尊敬されていました。
忠次郎は、幼いころから才智に優れ、当時城下で著名であった儒学者・坂井虎山(1798-1850)に学び、21歳のとき都に上り学問に励み、さらに江戸、水戸、奥羽にまで行って10余年間修業し、当時全国的に著名であった水戸の会沢正志斎(1782-1863)らの指導を受けて帰郷し、自宅を開放して漢学高木塾を開きました。
忠次郎の人柄は、正しく厳しく、行いは礼にかなっており、親孝行で高齢の父を付きっきりで看病していたとかかれています。
豊かな知識が評判となり、多くの門弟が遠近を問わず訪れて塾は盛況を極め、彼の教えは、朱子学を基本とし、儒学古典の大義を明らかにし、細かなことにはとらわれず、子弟の教育では精神の発達、志気の涵養を主眼としていたので、実際に社会に役立つ人材や高位高官になるものを多く輩出したのでした。彼の学識が評価されて。藩から幾度も藩校教授への要請があったのですが仕官することなく、市井の塾で生涯を全うしたのです。
明治12(1879)年7月23日53歳で亡くなり興徳寺に葬られ「文孝先生」と諡されました。
門弟の要望で尾長山麓に碑が建立されることになり、「高木老儒之碑」の篆額は閑院宮載仁親王(1865-1945)にお願いし、碑文は文部省御用掛などを務めた西尾為忠(1842-1900)によって書かれ、明治27(1894)年10月に完成除幕されました。
平成29(2017)年10月設置
高木松居 (たかぎ しょうきょ:1828-1880)
江戸後期〜明治時代の漢学者。名は忠。字(あざな)は子高。通称は忠次郎。
はじめ坂井虎山(1798-1850)の門にはいり、のち大坂の篠崎小竹(1781-1851)にまなぶ。文久元(1861)年郷里の安芸にもどり,多数の門下を教えた。著作に「左氏伝講義」「松居詩集」など。
2003年ここ広島東照宮の頁を編集して以来、東照宮で見聞きしたものを取り上げ頁を編集していました。
2006年この「高木老儒之碑」を撮影して碑文を何とか読んで頁を編集しようと思ったのですが、高木老儒学者自身について碑文を読み解くことができず、頁編集には至っていなかったのです。
2022年コロナ禍の中でしたが、兄と訪ねた時に、説明板(上記)が2017年に設置されており高木老儒学者についてわかりましたので、いまになりましたがこの頁が編集出来ました。
22.03.22.裕・編集

06.07.21.撮影

06.07.21.撮影
広島市東区二葉の里2-1-18

09.11.19.撮影
参道左手に建立されています

09.11.19.撮影
〔2009年撮影時:唐門及び翼廊の保存修理工事中でした〕

22.01.20.撮影
「高木老儒之碑」の根際に“旌忠碑”が移設再建されています

22.01.20.撮影

22.01.20.撮影
「碑之儒老木高」 (裏面)

22.01.20.撮影
(大神社参道の方からみました)



「広島ゆかりの人たちの石碑など」編


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