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東区二葉の里に鎮座している「広島東照宮」です。 |
広島東照宮は、徳川家康(1542-1616)公の神霊を祀っています。
1646(正保3)年に広島藩主の浅野光晟が造営を開始し、御神体は1647(正保4)年江戸上野青龍院にて開眼、これを迎えて遷宮祭を行い、1648(慶安元)年に完成しました。
明治の神仏分離までは長尾山松栄寺(東照宮の西隣にあった)を別当寺としていました。 |
1945(昭和20)年8月6日原爆によって本殿、拝殿などは倒壊・焼失しました。
当時、第二総軍の通信隊が常駐しており通信兵の消火活動で全焼は免れ、唐門、翼廊、手水舎などが残りました(現在も江戸時代の建築の特徴をよく伝えています)。
境内では多数が負傷し、さらに避難者であふれ当日(8月6日)に石段の下に臨時救護所が設けられたそうです。境内で被爆した宮司の奥様は10月に、宮司も翌(1946)年に亡くなったそうです。 |
爆心地から≒2,100m 被爆当時町名も二葉の里 |
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焼失した社殿は1965(昭和40)年に再建、さらに本殿・幣殿・拝殿は1984(昭和59)年に建替えられました。 |
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浅野光晟(1617-1693)の生母・振姫(ふりひめ:家康の三女)、夫人・満姫は家光(1604-1651)の養女であったことから夫婦揃って、広島東照宮の造営を念願したそうです。 |
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東照宮とは、江戸幕府初代将軍徳川家康(1543-1616)が朝廷から「東照大権現」という称号を贈られ、その後 神として崇められ「東照神君」「権現様」などと呼ばれるようになったものです。
三代将軍徳川家光(1604-1651)が、膨大な費用を掛けて「日光東照宮」を建設し、諸国の大名は忠誠の証として自らの領地にも東照宮を造営したといわれています。 |
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牛田に住んでいましたので、ここ広島東照宮の前(の道路)を何度となく通っていましたが、初詣で参拝することくらいで、境内の中をぶらり散歩したこともなかったのです。
2000年ごろから(わたしは)原爆関連の慰霊碑を巡りだしました。2001年境内・参道根際に建立の原爆慰霊碑の頁を編集しました。その後になりましたが、広島東照宮のこの頁を編集しました。 |
13.01.31.更新 04.03.31再編集 03.03.31裕・記編集 |
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04.01.02.撮影 |
広島市東区 二葉の里2‐1‐18 |
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06.01.21.撮影 |
(いままであったJRアパート群が解体され更地になりましたので)二葉通りからみました |
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06.06.01.撮影 |
拝殿 |
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12.01.09.撮影 |
社殿建物の配置がわかるかと撮影しました |
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13.01.18.撮影 |
昨(2012)年5月唐門、翼廊保存修理工事が竣工していますので撮影しました |
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03.03.28.撮影 |
03.03.28.撮影 |
03.03.28.撮影 |
原爆慰霊碑と石段 |
唐門(広島市指定重要有形文化財) |
広島市指定重要有形文化財説明版 |
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03.03.28.撮影 |
03.03.28.撮影 |
社殿 |
手水舎(広島市指定重要有形文化財) |
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06.01.21.撮影 |
06.01.21.撮影 |
06.06.01.撮影 |
06.07.21.撮影 |
(広島東照宮)
御供所 |
(広島東照宮)
本地堂 |
(広島東照宮)
原爆誌 |
(広島東照宮)
平和祈念短歌玉垣 |
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