(金印公園に建立の)
郭沫若・詩碑
福岡市東区志賀島字古戸1865の金印公園に建立されている「郭沫若・詩碑」です。
※ここ金印公園が2018(平成30)年3月リニューアルオープンし、この「郭沫若・詩碑」は‘交流広場’に再設置され、新しい説明板も設置されていました(のでこの頁を更新しました)。
郭沫若(
日本語読み・
かくまつじゃく 、
中国読み・
グオ モールオ:1892 - 1978)
中国の政治家、文学者、詩人、歴史家。四川省楽山県出身。
1914(大正3)年日本へ留学、第一高等学校予科で日本語を学んだ後、(岡山の)第六高等学校を経て、1918(大正7)年九州帝国大学医学部※入学、1923(大正12)年卒業。1916(大正5)年佐藤をとみと結婚。1921年に上海で文学団体「創造社」設立に参加。その後、国民党に参加するが蒋介石と対立、1928(昭和3)年日本へ亡命(市川市須和田に居を構える)。1937(昭和12)年日中戦争が勃発すると帰国して国民政府に参加。
戦後、中華人民共和国に参画政務院副総理・科学院院長・文化教育委員会主任兼任。1954年には全人代常務副委員長に就任。1955(昭和30)年中国学術視察団団長として来日。1959年中国共産党入党。文学・史学の指導をする。しかし文化大革命(1966年からほぼ10年間)が起きると自己批判をして自らの業績を否定した事で国内外の失望を買う。
1975年に再び全人代常務副委員長に就任。1978年、死去、享年85歳。
いままで金印公園を訪ねたことはありましたが、さして広くはない全体を見ていなかったなと、今(2008年)回は休憩所、方向広場もみてみました。
福岡は中国とのつながりが深いことから、関連の碑が建立されていますが、見ただけですませようとしましたが、
郭沫若の名前をみたとき文化大革命の時代(わたしがまだ学生であった時)に聞いたことがある名前だなと思ったのです。現代中国のことなど勉強したことはありませんが、なんとなく聞き覚えがあったのです。帰宅後調べてみました(上記)。
※
九州帝国大学医科大学(現九州大学医学部)は1911(明治44)年1月に設置され、4月に福岡医科大学が(京都帝国大学から)移管されました。
1919(大正8)年 帝国大学令が改正され、九州帝国大学医科大学は九州帝国大学医学部となりました。
理工系で育ったとはいえ漢文がわかればと最近は思うです。
顕彰碑などを(広島の地が主ですが)見れば碑文は漢文であるものが多く、旧字も少しばかりわかってはきましたが、なかなか読み切れません。この碑も漢文(漢詩)だけであれば写真だけの紹介で終わっていたでしょうが、見ると日本語の訳が付いていましたので編集しました。
2021年コロナ禍でしたが、ここ金印公園を訪ねるとリニュアルされており、この郭沫若詩碑は交流広場に設置され新しい説明板も設置されていました。
今回漢詩も読んでみましたが、理工系で育ったわたしですので間違いがあるかもしれませんとお断りをしての頁更新でした(ので)。
22.10.15.更新
08.06.06裕・記編集
リニュアルされた金印公園での郭沫若詩碑
21.10.17.撮影
(交流広場に再設置された)「楊尚昆詩碑」 と 「郭沫若詩碑」
21.10.17.撮影
郭沫若について
世界的に著名な書家であり、詩人、歴史文学者です。九州帝国大学(現・九州大学)在学中には志賀島をよくあるいたと云われています。
1892年 中国四川省楽山市に生まれる。
1918年〜1923年 九州帝国大学医学部に学ぶ。
1978年 逝去。享年85歳。
郭沫若が1955(昭和30)年に福岡を訪れた際に、日中の友誼をたたえ、懐かしい福岡に再来した喜びと永遠の平和を願う内容を綴った詩を18年後の1974年に自書した七言律詩です。
瞬
く
間
に
十
八
年
の
歳
月
が
流
れ
た
郭
沫
若
一
九
五
五
年
の
冬
訪
日
歸
途
福
岡
に
て
作
る
永
え
に
室
内
の
戈
を
ふたた
び
操
ら
じ
と
此
來
り
て
収
穫
は
將
た
何
に
似
た
る
や
人
に
逢
り
あ
え
ば
但
見
る
笑
み
え
く
ぼ
の
生
ず
る
を
旧
を
懐
え
ば
幸
に
堅
き
り
は
石
の
似
く
市
井
の
霓
虹
は
夜
に
入
り
て
多
し
海
山
の
雲
霧
は
朝
に
崇
ち
て
集
り
北
京
の
声
浪
は
銀
河
を
倒
す
戦
後
頻
り
に
伝
わ
る
友
誼
の
歌
詩
碑
訳
文
21.10.17.撮影
轉
瞬
已
十
八
年
矣
一
九
七
四
年
冬
郭
沫
若
一
九
五
五
年
冬
訪
問
日
本
歸
途
在
福
岡
作
此
来
收
穫
將
何
似
永
不
重
操
室
内
戈
懐
舊
幸
堅
交
似
石
逢
人
但
見
咲
生
窩
海
山
雲
霧
崇
朝
集
市
井
霓
虹
入
夜
多
戦
後
頻
傳
友
誼
歌
北
京
聲
浪
倒
銀
河
21.10.17.撮影
交流広場を後側からみました
関連頁:
楊尚昆詩碑
旧金印公園の郭沫若詩碑
08.04.28撮影
戦後頻りに伝う友誼(ゆうぎ)の歌」碑 1974(昭和49)年冬郭沫若 (1972年9月日中国交正常化)
一
九
七
四
年
冬
郭
沫
若
十
八
年
な
り
福
岡
に
在
り
て
作
る
転
瞬
く
ま
に
已
に
一
九
五
五
年
冬
日
本
を
訪
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し
歸
途
永
し
え
に
重
ね
て
室
内
の
戈
を
操
らじ
此
來
収
穫
は
將
た
何
似
人
に
逢
え
ば
但
見
る
咲
いて
窩
を
生
ず
る
を
旧
を
懐
え
ば
堅
か
ら
ん
こ
と
を
幸
う
変
り
石
の
似
く
市
井
の
霓
虹
は
夜
に
入
り
て
多
し
海
山
の
雲
霧
は
崇
朝
に
集
ま
り
北
京
の
声
浪
は
銀
河
を
倒
にす
戦
後
頻
り
に
伝
う
友
誼
の
歌
1955年=昭和30年、1974年=昭和49年
と
深
く
埋
定
さ
れ
て
い
る
の
で
あ
る
石
下
に
永
し
え
に
固
き
礎
た
ら
ん
成
り
そ
の
誓
願
連
署
は
こ
の
台
一
一
一
団
体
個
人
七
九
八
名
よ
り
民
族
永
遠
の
友
好
を
念
ず
る
邦
人
こ
の
建
設
委
員
会
は
日
本
中
国
両
08.04.28撮影
しき
頻りに
1)しばしば。ひっきりなしに。しきりと。
ゆうぎ
友誼
友達のよしみ。友達どうしの仲。友情。
声浪(うたこえ)
倒(さかしま)に
崇朝(あさのま)
げいこう
霓虹
1)ニジ、雄を虹(コウ)、雌を霓(ゲイ)という
2)天子のみ旗
旧(いにしえ)
懐(おも)えば
幸(ねが)う
似(ごと)く
咲(わら)いて
窩(えくぼ)
此來(このたび)
將(は)た何似(いかん)
永(とこ)しえ
室内(きょうだい)の戈(ほこ)
福岡ぶらり散歩
何処に行ってもぶらり散歩一覧
金印公園
-概説・リニュアル前-
金印公園-拡大版-
「漢委奴國王金印發光之處」碑
(公園内建立)
郭沫若・詩碑
金印公園
-リニュアル後-
金印について