(志賀島)金印公園-リニュアル後-
  福岡市東区志賀島字古戸に設置されている「金印公園」です。
※国土交通省の資料によると公園面積は5,849㎡ある特殊公園で、1975(昭和50)年供用開始だそうです。
※2018(平成30)年3月再整備工事が完了したそうで、この頁で編集しました。
(新しくなっていた)金印公園案内板
金印公園は、紀元57年に後漢の光武帝が奴国(なこく:現在の福岡市を中心とする地)の王に与えたとされる「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう※)」と記された金印(国宝)が江戸中期の天明4(1784)年にこの付近で発見されたことを記念した公園です。
公園に入口には、大正11(1922)年に建立された「漢委奴国王金印発光之処」と記された石碑があります。
展望広場には、金印のモニュメントがあります。博多湾と福岡の街を背景に古代の大陸との交流の様子を想像してみてください。
※読み方には他の解釈もあります。
福岡市東区志賀島古戸 福岡市東区役所
光武帝:
(BC5~AD57)
中国後漢の初代皇帝(在位25~57)廟号は世祖。22年王莽オウモウを討ち、25年即位して漢室を復興した。
赤眉
セキビの乱を平定、36年中国を統一。儒教を尊重、礼教主義による政治を行い、王室の基礎を確立した。
コロナ禍の2021年息子たちと久しぶりに訪ねた金印公園でした。
40余年前結婚の許しを頂いた後、妻の実家から歩いて訪ねたこの金印公園。いまにして思うと、開園した1975(昭和50)年だったのです。
今回頁を編集しながら、設置の説明板を読んでみると、金印公園に整備される前のこの場所のことなど(公園前の道路海側にも田圃や畑があったということなど)色々と尋ねてみたいことが在ったな~といまになって思いながらこの頁などを編集していたのです。
22.10.15.裕・記編集
金印公園(リニュアル後)案内図
1973(昭和48)年及び1974(昭和49)年に福岡市教育委員会と九州大学による金印出土推定地の発掘調査が行われ、1975(昭和50)年金印出土地付近は「金印公園」として整備されました。(整備前は段々畑でした)
2018(平成30)年3月再整備工事が完了したそうです。
2018年再整備後の金印公園は、関連する記念碑、モニュメントなどがまとめられ、交流広場、展望広場と関係づけられ展示されていました。

21.10.17.撮影 
福岡市東区志賀島古戸 金印公園案内図

21.10.17.撮影 
福岡市東区志賀島古戸    「漢委奴國王金印發光之處」碑

21.10.17.撮影 
(新しくなっていた)金印公園案内図

21.10.17.撮影 

21.10.17.撮影  
案内板横の金印モニュメント 印形「志賀島」 〔印面は展望広場にあり〕
交流広場
ばらばらにあった「楊尚昆詩碑」(福岡市の友好都市・広州市関連)と「郭沫若詩碑」(福岡市九州大学に留学していた)がこの広場にまとめられ、福岡市と中国との交流(の一端というもの)がわかるようになっていました。
説明板も新しく設置されており、関係性がわかる内容でした。
前回「郭沫若詩碑」は別頁で編集していましたので、その頁を今回更新しました。
ここでは、前回よくわからなかった「楊尚昆詩碑」を取り上げていました。

21.10.17.撮影 
「楊尚昆詩碑」 と 「郭沫若詩碑」(別頁で編集、下記にリンク先)
楊尚昆詩碑(福岡市・広州市友好碑)
楊 尚昆(よう しょうこん;ヤン・シャンクン:1907-1998)
中華人民共和国の政治家、軍人。
中華人民共和国主席、中国共産党中央政治局委員、中国共産党中央軍事委員会第一副主席などを歴任。長征経験者。
文化大革命後、1978年名誉回復。広東省党委員会第二書記、広東省副省長、広州市党委員会第一書記歴任。1980年代から1990年代前半の中国政界で権勢を誇った中共八大元老の一人で、弟の楊白冰と共に「楊家将」と呼ばれ、中国人民解放軍に大きな影響力を及ぼした。



















































ゆうぎえいこ
































海ひとつ隔てて両市は
向き合っている
 その友情は永遠に
変わることことはない

21.10.17.撮影 
「楊尚昆詩碑」と「)説明板」

21.10.17.撮影 

21.10.17.撮影
  
詩碑(漢詩は上記) 広州市と福岡市の位置関係図 

21.10.17.撮影 
裏側からみました
   関連頁:郭沫若詩碑
(新しく整備された)展望広場
以前は、“展望所”と“方位広場”がありましたが、リニュアルで「展望広場」に一元化されていました。
金印『金印は一辺2.3cm、重さ108gの金塊で鈕(つまみ)」がヘビをかたどっており。「漢委奴国国王」と刻まれています。
金印の出土地は、道路脇に建つ石碑から海に向かって右斜め前に行った所と推定されます。
金印の本物は、福岡市博物館で保管中です。』
石碑が建つ處が金印発見地と思っていましたが、いまはっ道路向こうの侵食されて海になっている所だそうです。
金印は王の権威の象徴を示すものだと思っていましたが、その使われ方を説明板で知りました。

21.10.17.撮影 
金印公園・展望広場

21.10.17.撮影 

21.10.17.撮影  
説明板(上記) 印面モニュメント 

21.10.17.撮影 
金印って何でしょう? 実際にどんな風に使われていたの?
金印は、1784(天明4)年(江戸時代)に、この公園の付近で出土したと推定されており、中国の「後漢書」には、紀元57年に、後漢の「光武帝」が、弥生時代に福岡地方の小国であったとされる「奴国」の王に、この金印を与えたとされています。
当時でも大変貴重な金印がなぜ志賀島で見つかったのか。これには、後に起こった大乱などにより隠されたという説、と、その際に遺棄されたとする説が有力。
ほかに奴国の王の墓や宮殿が志賀島にあったのでは、という説もありますが、現在でもその謎は解けていません。
金印は、大切な公文書や荷物の封印に使われたそうです。
荷物や文章を入れた箱を紐でしばり、その結び目に付けた粘土に金印を押して封をし、文書の秘密を守るカギの役目を果たしていました。1世紀という遠い昔に中国との交流を証明する貴重な文化財です。
現在国宝に指定され、福岡市博物館に常設展示されています。
ほぼ純金なので(実際難しいのですが)もしも手に取る事が出来たら、サイズから想像される異常にずっしりとした重さを感じられるはずです。
上部の紐通しは、とぐろを巻いた蛇のデザインです。
当時の印章は、図のように公文書や通信文が入った箱の封印〔「封泥(ふうでい)」といいます〕に用いられました。
福岡市の資料を参照すると、
『印は鋳造で、鈕(ちゆう)は蛇がとぐろを巻いたところを写した、いわゆる“蛇鈕”です。
蛇身は刻線で彫り、頭をうしろに曲げ、尾は巻いて右側方に垂れています。頭部に二つの目を刻み、身体全体に魚子(ななこ)状に鱗を刻んでいます。
総高は2.236cm。印台の高さは平均0.887cm、印面はほぼ正方形で、四辺の平均は後漢尺の1寸にあたる2.347cm。重さは108.729gです。
印面には漢隷で〈漢/委奴/国王〉の3行5文字が両面よりやげん彫に彫られ、文字の先端はきわめて鋭利で力強い。
類似の例で注意されるのは、雲南省石寨山古墓で出土した“滇(てん)王之印”です。
辺長2.4cmの金印で、蛇鈕をもっています。“史記”の‘西南夷伝’にある元封2(前109)年武帝が滇国王に与えたものと考えられています。
漢代では、
北方異民族には駝鈕、南方異民族には蛇鈕の印を与えるのが通例であった。』そうです。
*このことから奴国は、南方異民族として扱われていたことがわかりますね。

21.10.17.撮影 
モニュメントを海側からみました休憩所が設置されています

21.10.17.撮影 
博多湾を北側・東側からみました

21.10.17.撮影 

21.10.17.撮影 

21.10.17.撮影 
金印公園整備前は段々畑だったそうです

21.10.17.撮影 

21.10.17.撮影 
「漢委奴國王金印發光之處」碑の右側いまは海の中で金印発見地と推測されています

21.10.17.撮影 
(段々畑の面影が残る?)



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