(東京都立)第五福竜丸展示館

  東京都江東区の“夢の島公園”に建てられている第五福竜丸展示館に展示されている「第五福龍丸」です。
第五福竜丸展示館          昭和51(1976)年6月10日開館
この展示館には、1954(昭和29)年3月1日太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験(キャッスル作戦)による被害を受けた木造のマグロ漁船「第五福竜丸」およびその付属品、関係する資料を展示しています。
木造漁船での近海漁業は、今日でも行われていますが、かってはこのような木造船で遠くの海まで魚を求めて行きました。
ここに展示してある漁船は、1947(昭和22)年に和歌山県で建造されたものです。初めは、カツオ漁船でしたが後にマグロ漁船に改造され、遠洋漁業に活躍したもので、上記の被曝後*は、同(1954)年8月には改造されて東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」として使われ、1967(昭和42)年に廃船となりました。
東京都は、このような遠洋漁業の姿を船の実物によって知っていただくとともに、原水爆による惨禍がふたたび起こらないようにという願いをこめて、この展示館を建設しました。
*説明板は「被爆」を採用していますが、「被曝」だと思います。
(キャッスル作戦)
実験名 日時 (計画)核出力 実際核出力   実験場所     備考
ブラボー 1954年3月1日 6 Mt 15 Mt ビキニ環礁 第五福竜丸事件
ロメオ 3月27日 4 Mt 11 M ビキニ環礁
クーン 4月7日 1 Mt 110 kt ビキニ環礁 実験失敗
ユニオン 4月26日 3〜4 Mt 6.9 Mt ビキニ環礁
ヤンキー 5月5日 8 Mt 13.5 Mt ビキニ環礁
ネクター 5月14日 1.8 Mt 1.69 Mt エニウェトク環礁
※キャッスル作戦についてはWikipediaを参照しました
第五福龍丸(だいごふくりゅうまる)
総トン数140.86トン。全長28.56m、高さ≒15m、幅5.9m。速力5ノット。
東京都立第五福竜丸展示館
  〔展示館建物構造仕様形状〕
鉄骨2階建、床面積800u。東西40m、南北15m、高さ25m。
東西出入口:ガラス張り三角形、楕円形・変形コノイド(円錐形状)曲面。外装:コルテン特殊鋼(耐候性鋼)。
  〔館内〕
第五福竜丸船体実物、水爆実験被災の被害、乗組員の病状、まぐろ騒動、放射能雨、原水爆反対の運動、太平洋の核汚染状況、日米政府による事件の決着、マーシャル諸島の核被害、世界の核実験被害、核実験・核開発年表などの展示があります。
  〔展示館前広場〕
久保山愛吉記念碑、福竜丸のエンジン、マグロ塚石碑があります。
『汚染されたマグロの水揚げがあいつぎ、(当時の)厚生省はマーシャル海域に指定区域を設けてそこで操業するか通過した船を検査した』そうで、第五福竜丸以外にも水爆実験で死の灰を浴びた漁船は数百隻※にのぼるとみられ、被曝者が多数おられる事を(わたしは)知りました。
2014年9月20日新聞をみていると小さな記事に目が行きました。
被ばく船員の検査記録存在=第五福竜丸以外も、556隻―ビキニ水爆実験で・厚労省
『1954(昭和29)年に米国が太平洋ビキニ環礁などで行った水爆実験で、静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」だけでなく、周辺海域で操業していた漁船延べ556隻について、乗組員の被ばく量を検査した記録が存在していたことが19日、分かった。市民団体の情報公開請求に対し、厚生労働省が開示した。
厚労省はこれまで、第五福竜丸以外の被ばくについて、「実態を把握しておらず、記録も保有していない」としていた。今回の開示について、「改めて探したら見つかった」と説明している。
記録によると、旧厚生省は第五福竜丸の被ばく直後から、周辺海域で操業していた漁船の検査を開始。1954年3月〜6月に指定された5港へ入港した延べ556隻の船体と乗組員、捕獲した魚の放射線量を調べた。
乗組員の被ばく量は最大で毎分988カウントで、2週間同じ量を浴び続けても約1.68ミリシーベルト。第五福竜丸の乗組員(1.6〜7.1シーベルト)より大幅に低く、国際放射線防護委員会が緊急時の被ばく限度と定めた100ミリシーベルトも下回った。
実態調査を進める市民団体「太平洋核被災支援センター」(高知県)の山下正寿事務局長は、「記録があったことははっきりしたが、被ばく量は元船員や遺族の話から考えると低すぎる。持ち帰って専門家と検討したい」と話した。
ビキニ水爆実験で国は、第五福竜丸の乗組員以外に放射線障害は認められないとして、継続的な健康調査をしていない。』というような記事でした。
被爆(ひばく): 1) 爆撃を受けること。「空襲で被爆する」
2)原水爆による攻撃を受けること。また、その放射能の害をこうむること。
被曝(ひばく): 放射線にさらされること。「実験や原子力発電所の事故で被曝する」
この第五福竜丸事件以後、「死の灰」*という言葉が一般に広まり、子どもであったわたしでさえ、水爆実験の死の灰が雨に混じっているので雨に当たってはいけないと云われていたことを思い出します。
*特に、ストロンチウム90やセシウム137は永く残留して造血器官や生殖器官に重大な影響を及ぼすそうです。
広島の原爆関連慰霊碑を2000年頃から巡りだしたわたしは、2004年頃から市内にいまも残る被爆した構築物などにも目を向けるようになりました。
機会があったら、原水爆禁止運動がはじまるきっかけにもなったと云われるこの第五福竜丸を見学したいと思っていたのです。2013年になりましたが見学し、この頁を編集しました。
2017年7月新聞をみているとこの第五福龍丸の記事に目が行きました。
建造から70年。傷みは目立つが、当時のままの姿も残っていた。
『1954(昭和29)年、太平洋・ビキニ環礁で米国が行った水爆実験で被ばくしたマグロ漁船「第五福竜丸」の内部撮影が許可され、共同通信記者が入った。
乗組員だった久保山愛吉さんが被ばくの半年後に死去してから、2017年7月23日で63年。
江東区夢の島の展示館に保存されている第五福竜丸は建造から70年がたち、内部は老朽化が著しい。
主任学芸員の安田和也さんは「原水爆被害を繰り返すなという人々の思いを背負ったぼろぼろの船体を見て、当時に思いをはせてほしい」と話す。
「船首の部材は補修時に取り換えましたが、胴体は当時のまま。70年前の木造船が現存する例は他にありません」。高さ15mの船体を見上げながら安田さんが説明してくれた。船体横の階段を上り、甲板から船内へ。内部は保存の観点から、普段は非公開だ。(わたしが見学した時も当然ですが非公開でした)
船底の広いスペースは魚の保存に使っていた「魚槽」。
築地市場で廃棄された被ばくマグロもここに保管されていた。魚槽の外壁と内壁の間には断熱材が入っている。当時は冷蔵設備がなく、中に氷をぎっしり詰め込まれ、1,2ヶ月の航海の間、鮮度を保った。壁や天井の大部分は1985(昭和60)年〜1986年の大改修時に取り換えられたが、朽ちかけた部材も所々に残っている。
安田さんは「遠洋漁業に耐え得る木造船を建造した高い技術がうかがい知れる。船に興味を持ってもらうことで、核実験被害の実相や今日の核の問題を考えるきっかけになれば」と話した。』という記事でした。
2017年ここで取り上げた第五福竜丸の老朽化が目立つという新聞記事に接していましたので追記しました。
17.10.29.更新    13.11.21.裕・記編集

13.09.15.撮影
東京都江東区夢の島2-1-1  (夢の島公園)

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入口 出口

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静岡縣 燒津港 第五 福龍丸

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13.09.15.撮影
漁船・第五福竜丸模型(1/30)  製作:大石又七(元・第五福竜丸冷凍士)

13.09.15.撮影
1954(昭和29)年3月1日ビキニ環礁での米国水爆実験に被災した第五福竜丸を受け、農林水産庁がこの海域に5月15日〜7月4日海洋調査船「俊鶻丸(しゅんこつまる)」に科学者22名、報道関係者9名を乗せ海洋放射能調査を実施し、その時、放射能調査用に使ったのがこの測定器だそうです。
(当時)科学研究所の岡野眞治博士により製作された、放射能測定器です。
電離放射線を受けたシンチレーターから出た蛍光物質を、光電子増倍管が測定する仕組みだそうです。

13.09.15.撮影
第五福竜丸展示館及び周辺案内図

13.09.15.撮影
夢の島公園総合案内板



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