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中区中島町の平和記念公園に建立されている「峠三吉詩碑」です。 |
峠
三
吉
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か
え
せ
は
は
を
か
え
せ
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Give Back the Human |
Sankichi Toge |
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Give back my father, give back my mother; |
Give grandpa back, grandma back; |
Give my sons and daughters back. |
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Give me back myself, |
Give back the human race. |
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As long as this life lasts, this life, |
Give back peace |
That will never end. |
Written and translated by Miyao Ohara |
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詩碑は、黒御影石製です。
(形状)
高さ:70cm、幅:110cm、
厚さ:50cm
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建設 1963(昭和38)年8月6日
平和のための広島県文化会議
峠三吉詩碑建設委員会
碑文 三宅一子書 大原三八雄英訳書 |
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峠三吉(とうげさんきち:1917-1953) |
詩人。大阪府豊能郡(現・豊中市)生まれ。幼時に広島へ移り1935(昭和10)年に広島商業学校卒業、広島瓦斯株式会社に勤務。
在学中より詩作を始め、勤務後まもなく気管支の病気(結核罹患とも云われているようです)。キリスト教の洗礼を受けました。
1945(昭和20)年8月6日翠町*で被爆、戦後は広島で文化運動のリーダーとなり、新日本文学会に参加。共産党入党。1950(昭和25)年に「われらの詩の会」を結成。1951(昭和26)年謄写版の『原爆詩集』を出版。1952(昭和27)年に詩集『原子雲の下より』を編集。1953(昭和28)年国立広島療養所西条病院で手術中に死去、享年36歳の若さでした。 |
*爆心地から約3,000mの翠町(みどりまち)の自宅で被爆 |
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「にんげんをかえせ」と叫ぶヒューマンな叙情は戦後のドキュメンタリーとしても評価が高く、没後『峠三吉全詩集――にんげんをかえせ』(1970年)が出版されました。 |
2002年撮影してこの頁を編集しました。
2014年碑の後側から撮影し、2015年正面側から撮影しました。2002年と比べると碑文の文字色が薄くなってきていますのでそろそろ(白色の)墨入れの時期が来ているように思いましたが。
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2002年から意識して“峠三吉詩碑”を撮影してきましたが、その時に後側のツルバラに注目することもなかったわたしでした。
2020年みると、あれだけ茂っていた峠三吉詩碑建設委員会寄付のツルバラが貧相な樹姿になっていることに気が付きましたので別頁で編集しました。(下段にリンク先を記述しました) |
21.10.25.更新 15.01.29.再編集 02.12.25裕編集 |