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中区大手町の平和大通り南側緑地帯に建立の“広島・長崎青年交歓記念碑”根際に植えられている「永井博士ゆかりの薔薇」です。 |
世界最初の原爆を体験した広島と長崎の青年たちが、昭和二十四(1949)年十一月十二日、広島市で原爆都市青年交歓会を開き、反戦と反核のために立ち上ることを決意したとき、原爆症のため如己堂※で病臥中の永井隆(1908-1951)博士は、世界恒久平和確立の願いを込めて、庭に咲いていたこの薔薇の樹を贈ってこられました。 |
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1949(昭和24)年11月碑文(上記)にあるように永井隆博士が「広島市民がバラのように美しく幸福に送れるように」との願いを込め自宅庭のバラ1株を寄贈されました。
そのバラは、広島市役所庁舎前庭に植えられました。
ここで取り上げている記念碑は、(当初)1986(昭和61)年8月15日市役所庁舎前に建立されました。
1988(昭和63)年3月24日現在地に移設されました。
この時、永井博士から贈られたバラは市役所前庭に残されました。
この記念碑根際に植えられたバラは、新たに永井博士宅にあった「バラの子孫」を分与されたものだそうです。 |
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2014年4月17日撮影したバラは、もとのバラが樹勢を回復するまでの“代役”として2013年3月に植えられたものだそうです。
代役のバラは、市役所前庭の永井博士から贈られたバラを接ぎ木で苗を増やしていたものの一本だそうです。 |
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広島・長崎平和のバラ
このバラは永井隆博士の庭から贈られたものです。
1908(明治41)年松江市で生まれ三刀屋で育つ。松江高等学校より長崎医科大学に進む。卒業後放射線物理療法に取り組み1945(昭和20)年6月に白血病と診断される。同年8月9日被爆〔長崎医大爆心地から700m〕重傷を負いながら被爆者の治療に取り組む。病床でも執筆活動を続け「長崎の鐘」「ロザリオの鎖」「この子を残して」などを残した。1951(昭和26)年に逝去。 |
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2004年一輪だけ残った花が赤い色のバラでしたので赤いバラと思っていましたがバラが咲いたところの画像がありませんので、撮影しなくてはと思っていたのです。
2005年交流ウォークの時に撮影しました、。いまいち満開とは云えないような状態でした。
2007年の時はもう少し咲いてはいましたが、花満開とまでは、いっていない時に撮影しました。
2009年みた時はこのバラ弱っているのでしょう手入れがされていました。
長崎の平和記念式典のTV中継を見ていると、永井博士作詞の歌が流れていましたので、画像を増やしこの頁を編集しなおしました。 |
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今(2014)年2月17日中國新聞にこの“永井博士のバラ”について次のような記事がありました。 |
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『長崎の被爆医師・永井隆博士ゆかりのバラの木が衰弱しているのを受け、この木を1988(昭和63)年に植えた民間団体の関係者らが保存のための工事を始めた。バラの木は、樹勢回復を目指して広島市植物公園に移設。約1年かけて必要な処置をしてもらい、元の場所に戻す。
工事は、衰弱の原因となった日照不足や、周辺の土が踏み固められるのを防ぐのが狙いで、高さ約80cm、長軸約2mの六角形状に木杭囲いを設け、(日照確保のため)周囲の木も剪定する。約45万円の費用は、当時植えた市青年連合会の役員らでつくる「広島・長崎原爆都市青年友好平和のバラ保存委員会」が、市民からの寄付で賄い、4月末までに終える。
正本良忠委員長(81)は「平和の願いが込められたバラを大切にし、被爆者医療に尽力した永井博士の功績も広めたい」と話し、バラの木は、慎重に掘り返して鉢に移し、原爆慰霊碑の献水にも使われる「滝の観音」(西区)の水をかけて植物公園へ運んだ。土を入れ替え、杭も立てた。
保存委員会は、来(2015)年4月頃バラの木を広島市へ寄贈し、管理してもらう計画。万一枯れた場合に備えて、植物公園が「永井博士のバラ」として接ぎ木で育てている同じ品種のバラを1株、来月にもこの場所に植える。』 |
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広島市植物公園によると、このバラは米国品種で赤い花を付けるレッド・ラジアンス(赤い輝き)とみられるそうです。 |
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2014年中國新聞報道(上記)で知りましたので、4月になりましたが、日赤の定期健診の後立ち寄って撮影しました。
中國新聞報道によると
5月日赤での定期検診後立寄りみると咲いていましたので撮影しました。
永井博士のバラ、この記念碑の事など新聞記事ではわからないことがありましたので、資料見直しましたので追記しました。 |
2014年までの更新でしたので、2015年撮影画像、2020年11月の画像を加えこの頁を更新しました。 |
21.12.24.更新 10.08.09再編集 05.09.20裕・記編集 |