友愛碑 (日本損害保険協会慰霊碑)

  中区中島町の平和大通緑地(南側)に建立されている「友愛碑(日本損害保険協会慰霊碑)」です。
「友愛」碑は、原爆の犠牲になった日本損害保険協会関係者89柱の慰霊碑として1965(昭和40)年8月3日、日本損害保険協会広島地方委員会によって建立されました。
台座は円筒形で万成石で出来ており、(上部の)ブロンズ製彫刻は、十字形で、東西南北の人間が手をつないでいる姿を表し、平和を希求する世界の人々の愛と良心のつながりを表しているそうで、世界の人たちからの冥福の祈りを受けている形となっているそうです。
友愛碑の高さは3.3mだそうです。
政府は1941(昭和16)年12月8日太平洋戦争開戦直後、「戦争保険臨時措置法」を公布し、戦闘行為に基づく火災、損壊による損害を保証する戦争保険を設けました(1944年2月廃止)。
当初、国民には空襲の実感が無く、保険金の支払も原則即時払いではなかったため、申込みは少なかったそうですが、1944(昭和19)年4月「戦時特殊損害保険法」が施行され、火災保険契約に強制付帯するようになったことと、大都市への空襲が始まり、広島市民も一斉に申込みを始めたため、損害保険会社は連日繁忙をきわめました(1945年12月廃止)。
1945(昭和20)年8月6日原爆被災後、人々の不安を収めるため、8月10日頃から焼け残った日本銀行店内に各社の合同支払事務所を設け、保険金の即時支払事務が行われたそうです。
※碑などに関する資料は、広島市の資料などを参照しました
-日本損害保険協会について-
1917(大正6)年火災保険事業を営んでいた内外保険会社を会員とする
     大日本聯合火災保険協会が設立され、同会が起源とされています。
1920(大正9)年に日本海上保険協会、1927(昭和2)年に船舶保険協同会が設立されました。
1941(昭和16)年に上記両協会の火災保険、海上保険関係の団体が合体し、
     日本損害保険協会(旧)になりました。
1942(昭和17)年日本損害保険協会(旧)は、損害保険統制会となりその性格も変わりました。
1445(昭和20)年8月15日敗戦とともに統制会は解散となりました。
1946(昭和21)年損害保険会社の中心的機構としての日本損害保険協会が改めて設立。
1948(昭和23)年に社団法人の認可を得ました。
2012(平成24)年4月1日新公益法人制度対応で、一般社団法人に移行、現在に至っているそうです。

06.09.11.撮影
日本損害保険協会 広島地方委員会建之
1965(昭和40)年  辻晉堂
    辻晉堂(つじ しんどう:1910-1981)
彫刻家。鳥取県日野郡二部村(現在:溝口町)生まれ。本名は為吉。大工に弟子入り彫刻を学ぶ。
1931(昭和6)年上京、洋画を学び彫刻を独学。1933(昭和8)年日本美術院展に『千家元磨氏像』が初入選。1949(昭和24)年京都市立美術専門学校(現在:京都市立美術大学)教授。
いつもは平和大通側からみて通り過ぎていましたが、2000年に撮影してこの頁を編集しました。
2006年碑の後ろに回りこんでみたことがなかったとみると、この碑の作者が彫刻家の辻晉堂氏ということがわかりました。
2015年久しぶりに撮影し、この頁を再編集しました。
2022年撮影していましたので、更新しました。
23.10.06.更新   15.03.02.再編集  00.12.31裕・編集
  関連頁:(平和記念公園に建立)全日本損害保険労働組合被爆20周年記念碑

00.12.29.撮影
広島市中区中島町 平和大通緑地

06.09.11.撮影
碑裏側からみました     (画像奥左:国際会議場、右:通称・原爆資料館)

15.02.08.撮影

15.02.08.撮影

15.02.08.撮影

15.02.08.撮影

22.09.29.撮影
友愛碑を東側からみました

22.09.29.撮影

22.09.29.撮影
いつ見ても広島県損害保険代理業協会と日本損害保険協会中国支部の献花が慰霊碑を守っています

22.09.29.撮影

22.09.29.撮影
遠く平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の方に向いているようです



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