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安佐南区川内の川内小学校に1953(昭和28)年建立された「川内村戦没者戦災死者供養塔」です。 |
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安佐郡川内村温井(現・安佐南区川内地区)から中島新町(現・中島町、爆心地から≒650m)に出動した川内村国民義勇隊の先発隊は、現場で建物疎開作業中に被爆して全滅したそうです。
また、後続隊は現場に向かう途中で被爆し、無傷で帰って来た人もいましたが、後に原爆症に苦しむ人も少なくなかったそうで、この供養塔は、こうした原爆犠牲者と第2次世界大戦の戦没者を慰霊するため、建立されたそうです。 |
(正面) |
川内村戦歿者戦災死者供養塔 |
(側面) |
施主 川内村未亡人白梅会 |
(裏面) |
昭和二十八年十二月六日建之 |
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資料によって、原爆犠牲者の数が違いますが、一つの資料では147柱(義勇隊員)及び第二次世界大戦の戦没者を合祀していますということだそうです。 |
旧佐東郡川内地区では200人近い男性が爆心地すぐの中島町の建物解体(建物疎開)作業に出かけたまま還らぬ犠牲者となり、「原爆未亡人村」の悲劇として現在まで語り継がれています。 |
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今(2010)年7月20日中國新聞をみていると「建物疎開中200人が被爆死 義勇隊長(川内村増川村長)が自責の辞職願」という記事がありました。
『原爆投下時に建物疎開作業に当たり、多くの犠牲者が出た川内村村長が、生き残った自責の念から直後に記した辞職願が、平和記念資料館東館B1で開催中の企画展「国民義勇隊」で展示されています。
増川光太村長は1945(昭和20)年8月6日川内村義勇隊長として約200人の隊員(村民)とともに現在の平和記念公園内に出動。爆心地直近のため部隊は全滅、増川村長は(現・中区加古町にあった)県庁に出向いていて難を逃れました。
辞職願は8月24日付で県知事あてで、自分一人が生き残った自責の念とともに、「体の状態も深刻」などとしたためられています。
孫の光三さん(64)が、1996(平成8)年に亡くなった元中国新聞記者の父・正三さんの遺品から見つけ、撤回を促す(広島)県の文書も一緒に残り、辞職願は返還されたとみられます。光三さんは「優しかった祖父にとって、さぞかしつらい体験だっただろう」と。
犠牲になった村民の遺族たちは、広島菜の栽培などで戦後を生き抜いたことでも知られます。』という記事でした。 |
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本川左岸緑地帯に建立の(安佐郡佐東町川内温井)義勇隊の碑で川内村の多くの方が原爆の犠牲になった事を(わたしは)知りました。資料をみていた時にこの川内村戦没者戦災死者供養塔が川内小学校に建立されている事を知りました。
2010年になりましたが、川内小学校職員室でこの供養塔をお参りさせて下さいとお願いし、許可がおり、頭を垂れた後、撮影しました。
頁を編集しているときに、当時の村長の事を知り、(被爆者の方々は生きるも地獄だったと耳にすることがありますが)、この増川村長のつらい思いの万分の一でしょうが(わたしにも)分かるような話でしたので、中國新聞の記事を引用しました。 |
10.08.04裕・記編集 |