義勇隊の碑 (安佐郡佐東町川内温井義勇隊の碑)

  中区中島町の本川緑地に建立されている「義勇隊の碑」です。
1945(昭和20)年8月6日被爆時、中島新町付近(爆心地から約600m)で建物疎開作業に従事していた安佐郡川内村の義勇隊250人は全員が亡くなり、そのうち温井地区はひとつの地域としては特に多い180人の犠牲者を出したそうです。
建立年月日:1964(昭和39)年8月6日
建立者:安佐郡佐東町川内温井遺族一同
揮毫者:広島市長 濱井信三
(被爆時)安佐郡川内村の中でも温井(ぬくい)地区は180人(碑文には174名となっていますが)の犠牲者を出したそうです。(碑建立時は佐東町:下記)


































































































































































































































































































































(碑裏の)碑文には174名とありますが
上温井 84名
中温井 46名
下温井 50名
180名の方々が犠牲になり、碑裏面にお名前が刻まれています。
        -国民義勇隊(こくみんぎゆうたい)-
太平洋戦争末期の軍事的国民動員組織。
1945年(昭和20)3月23日、小磯国昭内閣(1944.7.22-1945.4.7)の際に、本土決戦に備えるため、防空、警防などの準軍事的活動を目的として同隊の編成が決定されました。6月には大政翼賛会、大日本婦人会などを解散のうえ統合し、さらにその組織的強化のため同月23日公布の義勇兵役法により、16〜61歳の男子、17〜41歳の女子をもって国民義勇戦闘隊が全国民が編入されましたが、間もなく敗戦(8月16日)で9月2日解散。
    -安佐郡の略沿革-
1889 明治22年4月1日 市町村制施行。
佐東町域には、沼田郡に属する川内
・緑井村・八木村がありました。
1898 明治31年 温井村と中調子村が合併して川内村.。沼田郡から安佐郡の川内村となりました。
1955 昭和30年7月1日 川内村、緑井村、八木村が合併して佐東町となりました。
1973 昭和48年3月20日 佐東町は、広島市に編入されて消滅しました(同時に安佐郡も消滅しました)。
2001年にこの「義勇隊の碑」(安佐郡佐東町川内温井義勇隊の碑)を撮影し頁を編集しました。
2002年8月6日原爆忌、この碑の前を通った時慰霊式典が催されていました。その時、女性の人が目立つ式典だなと思ったのですが、その時は、(わたしは)それ以上考える事ができなかったのです。
後に、原爆で多くの男性が亡くなり、その中には多くの所帯者がいたため川内地区は「原爆未亡人村」(75世帯もできたそうです)となりその悲劇は今日語り継がれている、と云う事を知ったわたしでした。
戦争による未亡人は、この例にとどまらず全国各地に多くの悲劇をうみだしたと思われます。
2015年久しぶりに撮影しましたので、この頁を再編集しました。
15.03.05.再編集     05.11.16碑文追記    01.10.30裕・記編集

01.10.25.撮影
広島市中区中島町1 本川緑地

02.08.06.撮影
2002年原爆忌に訪ねた時、慰霊式典が行われていました

11.08.06.撮影
「義勇隊の碑」  広島市長 濱井信三(被爆者:1905-1968)書

11.08.06.撮影
(碑裏)上温井、中温井、下温井

15.02.08.撮影
碑は東側(平和記念公園側)を向いています

15.02.08.撮影
義勇隊原爆死没者慰霊の碑

15.02.08.撮影
碑文・碑(碑文は上記)

15.02.08.撮影
≒南側からみました

15.02.08.撮影
≒北西側からみました



「原爆関連慰霊碑等巡り」編
「平和祈念碑等建立地一覧」編



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         (川内村関連碑)
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1953年 川内村戦歿者戦災死者供養塔
1964年 (安佐郡佐東町川内温井)義勇隊の碑
2006年 被爆者が描いた絵・碑:10号碑


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